木の魅力と日本の住まい
2.タテ割りとヨコ割り
私たちはこれまで、木は時代遅れの原始的な素材だと思っていた。だからそれに新しい技術を加え、工業材料のレベルに近づけることが進歩だと考えた。その結果、改良木材と呼ばれるものが次々に生み出された。それらは従来の木の欠点を補い、大量の需要に応じ、生活を豊かにするのに大きく役立ってきた。たしかに木材工業は発展したのである。
だが一方、最近になって、一つの疑問が持たれはじめてきたように思う。それは木というものは自然の形のまま使ったときが一番よくて、手を加えれば加えるほど本来のよさが失われていくのではないか、という反省である。考えてみるとそれは当たり前のことだったかもしれない。木は何千万年もの長い時間をかけて、自然の摂理に合うように、少しずつ体質を変えながらできあがってきた生き物だったはずである。木は自然の子で、そのままが最良なのである。
だから木を構成する細胞の一つ一つは、寒いところでは寒さに耐えるように、雨の多いところでは湿気に強いように、微妙な仕組みにつくられている。あの小さな細胞の中には、人間の知恵のはるかに及ばない神秘がひそんでいるとみるべきであろう。それを剥いだり切ったり、くっつけたりするだけで、改良されると考えたこと自体、近代科学への過信だったかもしれない。それはちょうど、一時流行した自然を征服するという言葉が、実は思いあがりの面があったことが、いま反省されているのと同じ事情ではないだろうか。
木を取り扱ってしみじみ感ずることは、木はどんな用途にもそのまま使える優れた材料であるが、その優秀性を数量的に証明することは困難だということである。なぜなら、強さとか、保温性とか、遮音性とかいった、どの物理的性能をとりあげてみても、木はほかの材料に比べて、最下位ではないにしても、最上位にはならない。どれをとっても、中位の成績である。だから優秀性を証明しにくい、というわけである。
だがそれは、抽出した項目について、一番上位のものを最優秀だとみなす、項目別のタテ割り評価法によったからである。いま見方を変えて、ヨコ割りの総合的な評価法をとれば、木はどの項目でも上下に偏りのない優れた材料の一つということになる。木綿も絹も同様で、タテ割り評価法でみていくと最優秀にはならない。しかし「ふうあい」まで含めた繊維の総合性で判断すると、これらが優れた繊維であることは、実は専門家のだれもが肌で知っていることである。総じて生物系の材料というものは、そういう性質をもつもののようである。
以上に述べたことは、人間の評価のむずかしさにも通ずるものがあろう。二、三のタテ割りの試験科目の点数だけで判断することは、危険だという意味である。たしかに今の社会は、タテ割りの軸で切った上位の人たちが、指導的役割を占めている。だが実際に世の中を動かしているのは、各軸ごとの成績は中位でも、バランスのとれた名もなき人たちではないか。天は二物を与えない。頭のいい人というのは、とかくくせがあって馴染みにくかったりするものだが、バランスのとれた人は人間味豊かで親しみやすい。頭のいい人はたしかに大事だが、バランスのとれた人もまた、社会構成上欠くことのできない要素である。だが今までの評価法では、そういう人たちのよさは浮かんでこない。思うに生物はきわめて複雑な構造をもつものだから、タテ割りだけで評価することには無理があるのであろう。
人に人柄があるように、木にも木柄がある。ヒノキは貴族的で、スギは庶民的だといったようなことである。人間と同じように使い手しだいで名品にもなるし、駄作にもなる。平凡でありながら非凡なのである。日本文化の中における木は、そういう形で生かされてきたし、今後もまた生きつづけるに違いない。
近ごろ、コンピューターよりも人ピューターのほうが頼りになるとか、エンジニアよりも勘ジニアのほうが高級だよ、という意見をはく人があるが、味わい深い言葉だと思う。