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    ID:
    33703
    年:
    2015
    月日:
    0815
    見出し:
    勤労動員の男性、13歳で木製戦闘機製造 操縦士の命奪わず救い 江別で企画展
    新聞名:
    北海道新聞-
    元UR(アドレス):
    http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/sapporo/1-0168675.html
    写真:
    【写真】
    記事
    終戦直前、江別などで製造された木製の戦闘機「キ106」の関連資料を集めた企画展が9月27日まで、市郷土資料館で開かれている。
    王子航空機江別製作所(現王子エフテックス江別工場)での3機を含め10機が完成したが、一機として実戦に使われなかった「幻の戦闘機」だ。
    その製造現場に13歳で 動員され、現在はキ106を通して戦争を語り継ぐ活動に取り組む佐藤明さん(83)=文京台=と同資料館を訪ねた。  正面ロビーに並ぶ資料は70点あまり。
    展示が始まった先月中旬以降、若い世代の来館が目立つという。
    70年前、勤労動員で寮生活を送った木造2階建ての寄宿舎の写真を佐藤さんが見つめる。  あれは1945年2月9日でした。
    札幌光星工業学校(現札幌光星中、高)の航空機科1年生で、授業が終わると先生から「これからの戦いが鍵を握る。
    まもなく君たちは飛行機の生産にかかわることになるぞ」と。
    お国のために役立てるという高揚感がありましたね。
    実際、当日の日記を読み返すと「とてもうれ しい」と書いてますから  寮に入ったのは3月1日。
    航空機科1年の100人全員が一緒です。
    軍需工場の寮だったためか、食事の量は少なかったが内容は良かった。
    その上、弾が飛んでくるようなところではないので「うちに帰りたい」と言う者はいませんでしたね。
    いま思うと、徹底した軍国主義教育による「洗脳された忍耐強さ」だった のかもしれません  江別での1号機が完成したのは45年4月12日、初飛行は6月11日。
    関係者約2千人が離陸を見守ったが、佐藤さんもその1人だ  私の仕事は燃料タンクの検査だったのですが、もう全員が「おれたちがつくり上げたんだ」と誇りを持っていたはずです。
    女子は感激して泣いているし、私にとってもそれまでで最高の喜びでした。  ただ日常の仕事は暇で暇で仕方がなかった。
    江別は組立工場でしたので、外注の部品がそろわないことにはお手上げです。
    生産計画では年間1千機となっていましたが、実際に製造できたのはわずか3機。
    戦況の悪化にほかなりません  江別空襲コーナーには残された薬きょうの実物のほか、米軍が撮影した江別上空や空襲地点を示す写真も。
    江別で12人が死傷したとされる7月15日、佐藤さんは実家のある札幌で機銃掃射を目の当たりにした。  たまたま2カ月に1日だけ家に戻れる日でした。
    丘珠飛行場が近くで、午前中にものすごいごう音がして家を飛び出すと、江別方面から来た米軍機が地上100メートルもない低空飛行で機銃掃射をしてきたんです。
    キ106とは格も迫力も全く違う。
    おぞましい光景に足がガタガタ震えました。  翌日、江別に戻ると製作所職員が亡くなったと知りました。
    研修で話をしてくれた方だったのですが、その後も死亡の事実について正式な連絡は一切ありませんでしたね  展示品をつぶさに見て回り、キ106が製造された意味をどう考えればいいのだろうか。
    最後に佐藤さんの思いを聞いてみた。  思えば非常に中途半端な戦闘機ですが、情報を知らされない中では性能を比べられません。
    だから多少でも役に立つかなと思わざるを得なかった。
    もし実戦投入されれば早々に撃墜され、操縦士の命に関わったでしょう。
    それがなかったのがせめてもの救いです  戦争には本来、戦線も銃後もない。
    都市も農村も関係ない。
    そうした実態を直視し、木製戦闘機というものが存在した時代背景を後世に伝えるべきです fff:

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