ID : 4372
公開日 : 2007年 8月 1日
タイトル
加賀藩が木材搬出で松本藩と密約 富山県立山博物館、絵図で判明
.
新聞名
北國新聞
.
元URL.
http://www.toyama.hokkoku.co.jp/_today/T20070801204.htm
.
元urltop:
.
写真:
.
黒部奥山の木材搬出ルートを確保するため、加賀藩が信州・松本藩との間で1838(天保9)年、塩の供給を条件に信州―飛騨間の新道を通行する密約を結んでいたことが、富山県立山博物館の米原寛館長ら
の研究で分かった。「御番所(おんばんしょ)」(関所)の新設を示した絵図と、加賀藩家老本多政和の覚書により明らかになった。加賀藩の山林管理「奥山廻(まわ)り」の一端を示す新事実で、米原館長は「物流経済が政治
に先行し、幕藩体制が緩み始めた江戸時代後期を象徴する出来事」としている。
米原館長によると、密約の発端となったのは一八三五(天保六)年、飛騨から焼岳峠を経て松本に至る新道の開通。当時、越中と信州の国境は確定していなかったが、黒部立山材を江戸に搬出する安全なルートとして
使うことができるため、加賀藩と松本藩の交渉が始まったとみられる。
一八三八(天保九)年の加賀藩家老本多政和の覚書(四通)には「黒部材木を江戸へ回すには費用もかかり」との事情から、「彼の地(信州)に塩を回す」ことを条件に「境を相立て、信州・小倉に御番所も出来た」と記され
ている。
覚書を裏付ける資料となったのが、一八三五(天保六)年の「信濃飛騨境見取図」と、一八三八(天保九)年の「新道筋明細絵図」。交渉前に作られた「見取図」には御番所の書き込みはなく、交渉成立後の「絵図」には松本
藩が設置した「小倉・御番所」が記されている。
御番所は国境警備の基地となり、木材の盗伐監視や、闇ルートによる塩の流通「洩塩(もれじお)」の摘発も任務だったという。
今回の研究で、山廻り役だった豪農・浮田家(富山市)の上司として、武士階級の横目、横目足軽、山廻り足軽が列せられていたことも分かった。
奥山廻りの絵図は、二十六日まで立山博物館で開催中の「奥山巡見―奥山廻りのダイナミズム」で展示されている。
木の情報発信基地では、TOPページを平日毎日更新しておりますが、その更新の中に、報道各社のホームページに
掲載されているニュースを毎朝調べ、昨日掲載された情報を集め、リンク形式の1行にその見出しを掲載しています。
2010年現在で毎日平均15本の広い意味での木に関する情報が掲載されています。毎日更新ですから、次の日には消えて
しまいます。これではいかにももったいないので、アーカイプとして分野別に分けて保存しております。このwebページは
「木材、木工、木製品」に関するものを集めています。2006年から開始しましたが、年に2度程度の更新で情報追加いたします。
情報収集の方法はグーグルニュースの検索で調べるというシンプルなものです。