添付写真を見て懐かしさを覚えられた方は原木世代でしょうか…
愛知県民は世代を分けるのに伊勢湾台風を知っているかどうかで区分けします。伊勢湾台風が襲ったのは1959年、小職は6歳、幼稚園園児でした。両親は畳を挙げて窓が破れないように支えておりました。『バーン!』、と大きな音がして玄関の戸が破れ風が吹き込んで来ました。『屋根が抜けるぞ!』、と叫ぶ親父の声を覚えております。小職は居間で弟と二人傘をさして漏れ来る雨を凌いでおりました。
その時です。
『矢作川が決壊する。避難せよ!』、雨音に混じった消防団の声を聞いたのでした。夜中だったと記憶します。外へ出るとお腹まで水に浸かりました。坂の上にある小学校まで逃げました。親父が忘れ物を取りに途中から家へ引き返して行きました。
『お父さんが死んじゃう!』
と…本気で泣いた事を59歳の今でも鮮明に思い出します。誰にでも有る懐かしい思い出です。
インドネシア駐在員にも思い出が有ります。たとえそれが異国の地と云えども、その地で何年か必死で生きて来れば自ずから鮮明な思い出は残るものです。そんなヒトコマが例えば添付の写真です。
飛行機です。大変お世話になった移動手段です。多島国家インドネシアでは飛行機を使わねば移動が出来ません。木材駐在員は3日空けずに飛行機に乗ることも少なくありません。そんな飛行機に思い入れがあるのは当たり前です。『BOURAQ』、懐かしいです。なんと呼んでよいのか判らずオバキューならぬボラキューと呼んでおりました。今では見られない尾翼のBマーク。大手木材伐採輸出業者ポロディサが経営していた異色の航空会社でした。タラカン島へ行くにはいつもこれに乗りました。ジャカルタから双発のプロペラ機で飛びます。有視界飛行ですのでタラカン島に日が暮れる前に着かねばなりませんので自ずから出発は早々朝です。
ジャカルタ-ジョグジャ(もしくはスマラン)-バンジャルマシン-バルックパパンと乗り継いでようやく次がタラカン島です。合計12時間の飛行です。日本へ行く以上の時間が掛かりました。
朝5時、薄明の中を飛び立ちます。朝4時チェックイン、朝3時タクシーで宿舎発、寝てはおれません。寝坊したくなければ夜中の2時までブロックMで飲む事となります。酔ってボーとした頭でクマヨラン空港へ向かう右手に倉庫の有る道を走り抜けました。酔ってボーとした頭で待合室に座りました。同じボーディングパスを持っているインドネシア人の傍に座り、彼にくっついて行きました。そうしないと、どの飛行機に乗ってよいのか判らないのです。バンジャルマシンの待合室が疲れと眠気のピークです。酔いが進んでますますボーとした頭で座っていたらいつの間にか誰も居なくなりました。
『サヤ、マウ、ナイク、ボラキュー、ク、タラカン(俺はタラカン行きボラキューに乗りたい)』係員にたどたどしいインドネシア語で聞きました。
差す手の先に居たのはプロペラを廻しているボウラックでした。『オーイ!』、と手を振りながらカバンを引きずって滑走路を走りました。プロペラの回転が止まり、おもむろに機体の扉が開きました。こんな大らかな時代だったのです。
そんなボウラックを本当に怖いと思った出来事がありました。タラカンからベラウへ軽飛行機が飛んでいるのです。ほぼ同じ時間にボウラックとムルパティという国営会社の便と2便が出てゆくのです。ムルパティがベラウへ着いたのにボウラックが着きません。翌日になっても着きません。
『一体何処へ行ったのだろう?』、と見送ったタラカン空港の関係者が噂しておりました。帰って来たムルパティのパイロットがタラカンプラザホテルに泊まりますので聞きました。
『大きな雲が出ていたので俺は海の方へ旋回して逃げたが、ボラックは山のほうへ 旋回して行った、空軍では海へ逃れるように習った、山へ行ってはぶつかるよ…』数日後、崖にぶつかって落ちたボラックの機体が見つかりました。パイロットの技量が命を分けたのです。当時の飛行機はドン!と落ちるように着陸するパイロットが多かったです。それは下手なのではなく軍隊上がりなのです。ドン!と降りるのは、直ぐ飛び上がれるよう、タッチアンドゴーの訓練をつんだ空軍上がりのパイロットなのです。
ジャカルタ日本人クラブでの想い出はラグラグ会です。ラグ(RAGU)とはインドネシア語で歌のことです。ラグラグ会とは日本人駐在員が駐在した証に、せめてインドネシアの歌を1曲ぐらい歌詞を見ないで歌えるようにしてから帰国しよう、という趣旨で始まった有志の会だと聞いておりました。
特に『グバハン・クー』という名の切ない別れの歌に人気が集まりました。
その最後のフレーズ、
『チンタ・ク…(私の愛は)、ハンニヤ…(唯一)、パダ・ム…(お前のもの)』
男から女へ言うのか女から男へ言うのかは判りませんが胸がキュッと締めつけられます。駐在期間中に知り合った素敵な人(?)との思い出に、せめてこの歌を歌えるようになりたい、と集まった(?)人達。当会は上記趣旨からみても当然女人禁制です。男ばかり集まって酒を酌み交わしながら好きな歌を皆で習う楽しい会でした。(卒業式は皆の前でインドネシアの歌を何でもいいから一曲歌い切る事だそうです。会社が帰国命令を出しても一曲歌いきれなかったら帰国は延期(?)だそうです。)
そんな日本人クラブの入っているビルがスカイライン・ビルでした。当時の商社はヌサンタラ・ビルかスカイライン・ビルのどちらかに連絡事務所を設けておられました。そのスカイライン・ビルのロビーに、『RAN(蘭)』という名の喫茶店がありました。当時のジャカルタで唯一日本式カレーライスが食べられるお店でした。(インドネシアにジャワカレーは有りません、有るのはココナッツミルクで溶いたカレー汁です)
当時は日本食と云っても高級料理ばかり、サラリーマンの定番、ラーメンを食べられるお店がインドネシアには有りませんでした。
『プレジデント・ホテルロビー奥に在る中華レストランの中華麺がラーメンに近い味がする』、『イヤイヤ、サリパシフィック・ホテルのコーヒーショップで出すワンタン麺の方がラーメンにより近い』、…このような会話を当時の駐在員は真剣に交わしていたものです。駐在数年、ようやく本物の日本ラーメンにめぐり会えました。その名も『Taicyan Ramen タイチャンラーメン』。堂々とラーメンを店名にしております。
(焼き)餃子も有りました。(インドネシアで蒸した水餃子が一般的で焼餃子はないのです。)そのラーメンの美味い事!、ようやく巡り会えた日本の味、みんなヌサンタラビルやスカイラインビルからわざわざ社用車でお昼を食べに駆けつけました。
ブロックMの中に居酒屋Taicyanと銘打った飲み屋が在ります。こんな歴史のある店であることを知る人は、もうジャカルタには殆ど居られません。日本に帰られたか、あの世へ行かれてしまったのです。
プレジデントホテルはその後ニッコウホテルニッコウと名を変え、更には日航が株を売ってPURMAN HOTELとなりました。その横にそびえるヌサンタラビルは健在ですが日本の会社が大幅に入れ替わりました。昔はここの入れベーターを上下するだけで商社廻りが出来たほどです。霞ヶ関ビルと同様に柔構造のビルです。何せ日本からの戦勝賠償金で建てたのですから。風が吹くとビルが揺れます。
当時ここの21階に大倉商事がジャカルタ店を構えられておりました。小職はその客先である天龍木材の出張者であるのにも拘わらず、勝手に机を置いて、我が物顔にのさばっていたものです。
だから判ります。風が吹くとビルが揺れるのです。さすが耐震柔構造。ジャカルタで地震が起こったらこのビルだけが生き残る、と言われたものです。
もう一つのスカイラインビルにはカジノ、『ジャカルタシアター』が在りました。当時のジャカルタ知事、アディサディキン氏は、カジノの収入でジャカルタの財政不足を補おうとされたらしいのです。このビルと道路を隔てた反対側に在るサリナ・デパートが空中回廊のような構造物で繋がっておりました。中にはお店が沢山ありました。ある日突然この回廊が下の道路へ落ちたのです。設計者が捕まりましたが、その言や良し、『私は橋として設計したのであって回廊として設計したのではない、勝手に店を作れば重さで落ちるのは当り前!』楽しい国です。
上司やお客のお供で行ったカジノで小職は賭けませんでした。皆は四角い確か5万ルピアのチップを張っていました。華僑の金持ちは四角いチップを10枚重ねて輪ゴムで巻いたトウフといわれるものを貼っていました。
凄い!
一晩で600万ルピア勝ち、それを二日も続けた日本人商社マンが有名になりました。1200万!、その頃の小職のタラカン生活費は10万ルピアぐらいだったです。賭博の嫌いな小職は、顧客や上司が遊んでいる間、金を減らさず時間稼ぎする方法を考えました。ルーレットで偶数と奇数、赤と黒に同額を賭けるのです。
どちらに入っても金が戻ってきます。絶対に減りません。哀れを催したのでしょうか、気が付いたディーラーが言いました。
『俺の言うとおりに張れ』、『黒だ』 『次は奇数だ』。その通りに張ると勝つのです。金が倍になって戻ってくるのです。ディーラーがルーレットの目をある程度コントロールできることを知りました。そして、勝つっていると女が寄ってくる事も知りました。『何処のホテルに泊まっているの?』そして、負け始めると女が黙って消えてゆくことも知りました。
カジノの対面はサリナ・デパート。何と国営です。国営の理由はこれも日本からの戦勝賠償金で建てられたからです。当時のスカルノ大統領がインドネシア全土の大都市?にデパートチェーンを展開して庶民の暮らし向上に努めよう、と建てた最初にデパートでした。サリナとは大統領の命名ですが、女性の名です。その後ブロックMにサリナ・ジャヤという系列のデパートが出来ましたが、半官半民でした。サリナの名が付くデパートは大統領の意思とは裏腹にこの2点だけで取り止めとなりました。
国営デパートに勤めるデパートガールは国家公務員です。お客が居ても無愛想で自分達のおしゃべりに夢中です。『いらっしゃいませ』とも言いません。頭に来たので、『何をお探しですか?』、と聞いてきた娘に、『お前だ!』、と冗談を言ったら、ニコッと笑って、『5時に外で待っていてね』、と返してきました。結局買い物は売り子さんになってしまいました。
本当におおらかな時代でした。
思い出を語っておりますと時間が経つのさへ忘れます。その時々は苦しかったり悔しかったりしたのでしょうが、今になれば全て懐かしい思い出です。沢山の思い出を語るにはページ数が足りません。まだまだ面白い話はあります。以降は次回紹介しましょう。