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神谷のインドネシア点描

『懐かしい…その2』の巻き

前回の懐かしい…!、に続く第二弾です。更に懐かしい写真をお見せします。

『二階建てバス』 ジャカルタにかつてLEYLAND社製二階建てバスが走っていたのを覚えてますか?

(注釈)ブリティッシュ・レイランド社は、 Austin(オースティン)、Morris(モーリス)、  MG, Triumph(トライアンフ)、Rover(ローバー)、Jaguar(ジャガー)及び Daimler(ディムラー)、を傘下に納めるかつての英国国営自動車メーカー。こんな沢山の有名メーカーを傘下に納めた会社が英国にはあったのですね!
大英帝国の面目躍如ですね…。
 
ブロックM内にその懐かしい2階建てバスがテレカ(この言葉も懐かしい)売り場となっています。その昔、このバスの運転手が仕事を終えて車庫に帰るとき、近道をしようとして路線以外を走り、路線には無い陸橋に2階部分をぶつけた、という本当か嘘かわからな話しを聞いたことがあります。

インドネシアにはこの類の本当か嘘かわからない話が多いです。
曰く、鳥のようにでっかいセミが飛んでくるタラカンでの話、
曰く、デパートガールが自分を売るジャカルタでの話、
曰く、自動車の凹みが魔法で直るクトックマジックの話。
曰く、豹が車に撥ねられ人間に食われたパカンバルーでの話。
日本では嘘と断定できるような話しでもこちらでは結構本当なのです。『嘘の様な事実のある国』…見様によっては大変魅力的な国です。


『燃えるブロックM』
昔はスラムで大火事が起りますとその後には大規模商業開発が姿を現しました。大火事は大規模開発の前触れなのです。何で?
それは貧しい庶民を立ち退かせる手間省きの手段だからです。付け火とは申しません。度々偶然、風の強い日に失火が有っただけのことなのでしょう…(ね)


『ガオーの像』
別名アッチッチの像とも呼びますが、こういう名前の像ではありません。当時の日本人駐在員がその姿から、ガオーの像やアッチッチの像と呼んでいただけです。クバヨラン地区の入り口に立っております。では、本当はどういう意味の像でしょうか?
正式名称は、『Patung Pemuda Membangun』若者達がインドネシア国家を創造するという象徴、頭上に掲げた皿には消えない火がともっており、若者達の尽きないSemangat(情熱)を顕しているのです。
 
ジャカルタの街にはこのような銅像が至る所に立っております。歴史上の人物であったり、神話上の人物であったり…。
 
その中でも特筆すべきと小職が思っている像があります。ジャカルタの玄関、『Soekarno Hattaインターナショナル空港』入り口に立っている二人のおっさんの像です。一人は空を指差しています。これがインドネシア共和国初代大統領であり日本ではデビ婦人の旦那として有名なスカルノさんの像です。隣に大きなメガネをかけた背の低いおっさんが居りますが、これが日本では女好きスカルノ大統領の陰に隠れ殆ど知られていないインドネシア共和国初代副大統領、ハッタさんの像です。(実に実直そうな容貌です)
 
この像が経つまでに大変長い年月が掛かっております。歴史においてはスカルノ大統領からスハルト大統領への交代は政権禅譲ということになっておりますが、小職はこれを、『インドネシア版本能寺の変』だと思っております。

スカルノ大統領を支える2大勢力、インドネシア国軍とインドネシア共産党が主導権争いを演じ、先に仕掛けた共産党が国軍に返り討ちにあい壊滅した事件がありました。その勃発日をとって『9.30事件』、と呼んでおります。
当時陸軍戦略予備軍司令官であったスハルト将軍がこの事件を半日で鎮圧し政治の世界にデビューしたのです。まさに本能寺の直後に備中大返しを行って織田政権を奪った秀吉のごとしです。秀吉の備中大返しは本能寺の変が起こる事を知っていたかの如き速やかさです。スハルトさんも9.30事件が起こる事を知っていたかのごとき速やかな鎮圧です。そして二人ともこのあと政権を移譲される風を装ってこれを奪うのです。小職はスハルト将軍がスカルノ大統領を追い殺したクーデターだと信じております。

そしてこの事件をきっかけに共産党狩りが国軍の手で行われたのです。先ずは中国からインドネシアに渡ってきた華僑がその標的となり殺されました。小職の取引先、CV. Kayu Agathis社のオーナーGUI氏はスラバヤから命からがらカリマンタンの北の果て、タラカン島まで逃げた来たんだそうです。グイ爺ちゃん曰く、『あいつは赤だ、と言われただけで立たされ喉を切られたんだ。俺はドサクサに紛れて逃げた。怖かった…』 華僑に止まらずスカルノ与党だったインドネシア共産党(PKI)を壊滅させる為にジャワ人である同胞同士の殺し合いさへも容認しました。
日本でも有名な民謡、『ブンガワン・ソロ』の舞台ソロ川が、ジャワ人の血で赤く染まったそうです。
この時の虐殺で35万とも50万とも云われるインドネシア民衆が犠牲になりました。この大虐殺を演出したのもスハルト将軍でした。 その後インドネシア第二代大統領就任したスハルトさんの手でスカルノ一族は実に長い間その存在に蓋をされたのです。外国人プレスに『微笑みの大統領』、と呼ばれたそうですが、端正な顔の下に隠し持っていた彼の本性が窺い知れる話しです。

昔はスカルノさん絡みの話をするときはヒソヒソ声で周りを伺いながらしたものです。スハルトさんの力が陰りを見せ始めた頃、スカルノさん復権の兆しが見え始めました。流石のスハルトさんも1985年に開港したジャカルタ国際空港にスカルノ・ハッタと命名しました。二人の銅像を玄関口に建て空港名をスカルノ・ハッタ空港と命名する事によりスカルノ復権を認めたのです。

スハルトさんはその後経済危機に端を発した改革要求デモとそれを鎮圧しようとした治安部隊の水平射撃で犠牲となったトリサクティ大学生の弔いデモきっかけに火を噴いたインドネシア最大で最後の大暴動、『ジャカルタ騒乱』に抗し切れず、国軍最高司令官ウイラント将軍の勧告を受けて家族の保全を条件に身を退かれました。

その後の姿は語るも哀れ…
死期が来ているのに彼の死去による逮捕・追放を恐れた親族や取り巻きの手で延命という名の治療を施され多くの管に繋がれた老醜を晒し続けたのです。『死ぬべき時に死ねない』、まさに今までの行状に対する神からの審判だろうと小職の目には映りました。

ジャカルタ最大のスディルマン通りには独立戦争の英雄、スディルマン将軍の銅像が立ちました。なのに、インドネシアの開発独裁を三十余年に亘って牽引してきた最強の大統領スハルトさんの銅像は、いまだ何処にも立っておりません。(と、小職は記憶します。)

『驕る平家は久しからず』歴史は何処の国でも同じ教訓を見せてくれます。驕ったスハルトさんの末路や哀れ、驕りに驕った日本の民主党は、見事に哀れな末路を晒しましたね…

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