インドネシアで教えられました。『頚木を外すといかに人間は楽になれるものか』…。
最初の経験は鮮烈でした。逼迫した状況で逃げ込んだシッパーのトイレで 『アレ!』
ティッシュを忘れたのです。水を溜めてはありますが横に柄杓が置いてあるだけです。この柄杓で一体どうしろと言うんだ!?
『さあ、どうする…』出すものは出してしまいましたので何とかしなければパンツも穿けません。ズボンを穿かなければ外には出れません。
柄杓を見つめます。これでどうせよというのか?考えます。トイレは思考する場なのです。柄杓ですので水を掬うのです。それは判ります。でも、それからが、判りません。
掬った水をどうすれば紙の替わりにできるのか?一日中トイレにこもっているわけにも参りませんので恐る恐る考えられる限りの手を打ちました。柄杓で水をかければパンツもズボンもビショビショになります。そういえばトイレから出てきたインドネシア人のズボンが濡れていたのを見たことがあります。しかし、ビショビショではありません。お尻にあたる部分が少し湿っていただけです。
どうすればあんなふうに仕上げられるのか?柄杓の水を手のひらに掬ってみました。右利きなので右手で柄杓を持ち左手の平に水を受けました。これをどうする???インドネシアの友達に聞いとけばよかったな…、後悔しましたが後の祭り…。火急の課題はどうやってここから出れるのか…、なのです。
先ずは手のひらに受けた水をお尻にパシャッと投げようと考えました。はたと困りました。どちらから左手をお尻の下に差し込むべきか…両足の前からか…、はたまた後ろからか…、前から試してみました。パンツがビショビショになりました。
こりゃ駄目だ。手のひらの水ごとお尻に触ってみました。指に付きました。こりゃもっと駄目だ。
どうする、どうする、気ばかり焦ります。
何度も失敗して指に付けたりビショビショになったりしているうちに何とか出来る様になりました。手のひらとお尻の微妙な距離が問題なのでした。遠くから水をかけてはいけません。膝のズボンがビショビショになります。近すぎてもいけません。指に付きます。お尻が濡れますがこれは水を使うので仕方ありません。その濡れ方が問題なのです。ビショビショではなく、かすかに濡れる程度、穿いたパンツが吸収してズボンまでは濡れない程度、…これが理想です。手とお尻の微妙な距離がこの理想を達成させるのです。
トイレに入るたびに理想の濡れ方を追求しました。こんな修練、とても人には言えません。果たしてインドネシアの人々はどうやっているのだろう?今でも疑問です。聞かぬが仏の永遠の謎です。30年にわたる研究と修練の成果が実り、今ではズボンが殆ど濡れない程度になりました。
そうなると楽です。トイレに紙がなくとも気にしません。平気で自分の手を紙の替わりに使えます。インドネシア人が左手を不浄の手と呼び左手で握手をしない理由を身をもって理解しました。他国の文化を理解するということはここまで過酷なものなのです。
ある日、キャンプへ行くボートの中でナシ(ご飯)・ブンクス(包み)というバナナの葉っぱで包んだ弁当を食べようとしました。ナシ・ブンクスはインドネシアでは一般的な庶民の弁当です。そして、箸がないのに気が付きました。
トイレほどには悩みませんでした。みんな手で食べております。見よう見まねで左手にご飯包みを持ち右手の指でご飯をすくってみました。口へ持って行くまえにご飯がバラバラになり指からこぼれ落ちました。日本の米とは違います。粘り気のないパサパサのインディカ米です。如何にこれを口まで持ってゆくか…
彼等の動作を真似ました。3本の指に親指を沿え米を摘みます。指でよく固めた上でこれを掬いすばやく親指で押し出して口に入れます。トイレットペーパーとスプーンを一緒にしてはいけません。この作業は必ず右手で行います。食事にスプーンや箸が要らなくなりました。どこでも五本箸で美味しくご飯が食べられます。
左手をトイレットペーパーに、右手をスプーンに。入れる&出す、という人間としての根源作業を全て自分の体だけでできるようになりました。人間の進化とは逆行しますが道具から自由になれました。道具に頼らない生活、道具の頚木を外すとこんなに心地よきものなのか!動物としての本能がそう思わせるのでしょうか…人間も動物なのだ、と気が付いたヒトコマでした。日本で生きていては味わえない開放感でした。
仕事での失敗に懲りて願掛け禁煙禁酒を始めました。日に2箱半もタバコを吸っていた頃はタバコ無しでは生きられませんでした。タバコかライターを忘れると落ち着きが無くなる程でした。タバコを止めたらポケットを気にしなくなりました。ライターの存在を指で探らなくなりました。実に自由です。
一つ一つ頚木を外してゆければ、人間は如何に自由になれるものか!我々は自分で自分の心を締め付けているのです。
文明とは…
人間を動物から遠ざけるもの、
人間を道具に縛り付けるもの、
人間の本能を失わせるもの、
開放感を失わせるもの、
人間も動物であり世の中の生きとし生けるもの全てと同体であることを失わせるのです。
果たして文明の功罪や如何に???
原発のよき面を見続けて来た結果がどうだったか、悪しき面が現れた途端に生きる行為を根底から覆す災害となるのです。便利に生きる為に存在するはずの道具が生活を妨げる頚木となっていませんか?頚木を外す心地よさ、開放感を味わいたければインドネシアへ来て下さい。誰もが実に生き生きとして来ます。それは自分が生きとし生けるものの仲間であることを実感した本能の悦びなのです。
どんどん頚木を外していった先には何が待っているのでしょう?全てからの開放、生からさへも開放出来たら…? それは、死でしょう。
でも、大丈夫です。
人間は自ら頚木を作り出す動物なのです。昔の頚木がなくなっても新しい頚木が現れます。携帯なくして生きられますか?、 スマホの無い人生なんて…ホラ、もう新しい頚木を作ってますね。ご安心下さい。人間の寿命は延び続けるでしょう。