三つ子の魂百まで
3月上旬に行ったわたしの最終講義のタイトルは、これと同じの「木を観て、木に探る - 私の木質科学研究」とした。木を観る、としたのは樹木や木材を見るのではなく、木材を観察するという意味である。木に探る、というのは木材や住宅の劣化診断法の開発に携わってきたことから、木を調べて見つけ出す研究ということで名付けた。
京都大学には、昭和40年の春に農学部の林産工学科に入学した。この学科は昭和40年度から新たに設置されることが決まっていたが、まだ国会で予算が認められておらず、親学科ともいうべき林学科の学生としての入学であった。
4年生に進学した折り、学科にあった6研究室のうちの木材構造学研究室に分属することにした。この研究室は農林省林業試験場(現在の森林総合研究所)から移ってこられた新進気鋭の原田 浩教授が率いておられ、当時としては全国的にも設置台数も少なかった電子顕微鏡(もちろん透過型)を武器として、木材の微細構造の観察を目標に掲げていた。ちなみに、生存研の杉山淳司教授とは同門である。
大学院に進学して選択した研究テーマは、“木材の細胞壁の形成過程を追跡することによってピットの構造を明らかにする”というものであった。ピットというのは“壁孔”と書き、木材の細胞に開いた穴のことで、生きている樹木では樹液の通導の経路になり、木材の加工では乾燥の際に水分が出て行く時の、逆に薬剤を注入する時の孔になるところである。
透過型顕微鏡ではきわめて薄い切片を作成し、これに電子線を照射してものの内部構造を観察するというのが普通であるが、わたしの場合は表面形状を観察するのが主目的であった。現在では、照射して返ってくる電子線によって拡大観察する走査型電子顕微鏡が著しく発達しているが、当時はまだ開発途上にあり普及はしていなかった。そこで透過型電子顕微鏡で表面形状を観察するにはレプリカ法という手法がとられていた。薄いフィルムで検体の型を取った後、被検体から分離して観察するというものである。しかし、フィルムでの型取りではどうしても分解能が劣るため、直接にシャードゥイングの金属と裏打ち用のカーボンを蒸着するダイレクト・カーボン・レプリカ法というのが提案されていた。これを木材用に使えるようにするのが、まず最初の課題であった。
ともあれ、レプリカ方法の開発もうまくゆき、生長している樹木細胞の細胞壁の形成過程を観察することができるようになり、新たな成果が次々と生まれるようになった。一番感激したのは、スギのピットの膜(直径10~20ミクロンの円形をしていて、中央の弁をミクロフィブリルで支えている構造)が、真っ暗な部屋に設置された電子顕微鏡の蛍光板にくっきりと結像した時であった。当時、データの処理はすべて写真であり、その現像も一貫して自分達が暗室でおこなったので、フィルムにちゃんと写っているのを確認してはじめて安心したものである。
それ以来、わたしの研究手段は、対象が変わろうとも「観る」ということが基本になった。大学院を修了後、奈良県林業試験場(現 森林技術センター)に勤務することになり、建築材料の強度性能の測定や、間伐材の材質調査などにも携わったが、一方で、奈良の春日奥山に生育している老齢スギの組織、天然シボ材という若齢であっても年輪が凸凹する変わりものの木の特徴、樹木の幹に傷をつけて生じる傷害組織、等を調べる研究をおこなった。これらの研究では、あくまでも“ミクロの目で観る”というのがベースになっていた。
当時、京大木材研究所の則元先生に声をかけてもらって、マイクロ波照射を利用して曲げた木材がどのような内部構造になっているかを研究したのも、すでに普及段階に入っていた走査型電子顕微鏡による観察であった。その後も則元先生は、「ゆうちゃん、君はやっぱり穴覗きが一番得意だね」と何度か言われたものである。自分としては、意図して電子顕微鏡というウルトラミクロな世界を志向したわけではなく、また、顕微鏡というものに格別のこだわりを持っていたのでもなかった。
その後、木材研究所附属木材防腐防虫実験施設に任用されてから、木材の高耐久化、すなわち木材や木質材料の微生物や昆虫による劣化防止の研究においても、形態学的方法による解析がその背景となっていた。腐朽した木材や木質ボードのフラクトグラフィー(破壊断面の形態観察から、力のかかり具合や破壊要因を推定する方法)、化学修飾木材の耐久性発現機構の解明、木材の風化と耐候性向上の研究、木材への液体注入性向上方法の開発、いずれをとってみても手に持っているのは虫めがねであった。研究者にとって、最初に何を、どういった方法で取り組むかがいかに重要性であるかを改めて考えさせられている。
OBの易しさと難しさ
わたしには、運動神経、音楽的才能がまったく無く、典型的な運痴、音痴だと自覚している。以前は、木材研究所の中に「九十九会」というゴルフの愛好会があり、定期的にコンペも催されていたこともあって、ゴルフ歴も結構長い。九十九というのは、よく練習して百のスコアを切ること目標にしようという意味でつけられたものであるが、百どころか、いつもOB(Out of bound, border)でコース両側の境界杭を飛び越えて外に飛び出してしまうことが多かった。ティグラウンドで真横に飛んだこともあった。
ゴルフではフェアウェイに打とうと思ってもなかなか難しく、意図せずともOBになってしまう。一方で、研究におけるOBはなかなか容易なものではない。どうしても自分の領域にこだわり、これを越えて新たな分野に挑み広がっていくには相当の勇気とエネルギーが必要になる。特に農学系というのは生物、化学、物理、それに加えて社会科学も包含していて、ある意味ではそれだけで自己完結的な学問分野を構成している。そのため、最近までは外に飛び出すことの少ない領域であったように感じている(もちろん、生命科学のように、すでにボーダレスの研究の広がりをみせている分野もあるが)。
特に、わたしの専門とする木材保存は、それ自身の中で微生物や昆虫の生物学、薬剤や環境に関わる化学、木質材料や住宅の物理というものも含み、小さくまとまった学問の居城といえないこともない。仲間うちだけの付き合いになったり、お山の大将になってしまう心地よさに気をつけなければならないとずっと思ってきた。わたしは、現在、(社)日本木材保存協会の会長を務めているが、自分で枠の中に閉じこもったり、所属する協会の名前に拘束されることのないように、ぜひそれを飛び越えて欲しい、と常々仲間に言ってきている。
平成16年4月に、木質科学研究所と宙空電波科学研究所とが統合再編して生存圏研究所が誕生した。この間の先生方の努力は並々ならぬものがあったが、6年が経過し、改めて振り返ってみると、良い選択をしたものだとつくづく思う。統合の直前、当時木質科学研究所長であった則元先生と話していた時、「近き他人と結婚するのが良いかも分かりません」と言ったのを今でも憶えている。近いというのは両方の研究室がキャンパス内で比較的近くに位置していたことであり、他人というのは両者が研究の背景や解析の手法、また対象領域もまったく異なる研究者集団であったことを意味している。
しかし今では、「木に空を繋いだ」ことによって生存圏科学につながる新たな研究分野が構築されつつあり、また一方で、まったく異なる領域にいると思っていたのがマイクロ波利用やリモートセンシングで同じ土俵に立つこともあって、まさに学際的、融合的な学問分野が出来ているのも肌で感じている。OBが普通になってきたと思う。
「執」と「ああ、そうだったのか」
研究者に必要なものであって、わたしに欠落していているのは「執」だと思っている。固執、執着、、、、、の執である。故人となられたが恩師の原田 浩先生は現役の頃、卒業する学生に字を一つ色紙に書いて渡されるのが慣例になっていた。わたしに与えられたのは、「執」であった。40年以上昔のことでありながら、今までそれが頭から離れることはなかったが、ついに超えることは出来なかった。
わたしの研究履歴を振り返ると、電子顕微鏡による超ミクロな木材細胞の観察、奈良県林業試験場での山林や市場での木材の材質調査や柱の強度試験、木材研究所、木質科学研究所、さらに生存圏研究所での腐朽菌やシロアリの生理・生態と木材の劣化防止の研究、木材や住宅の劣化診断機器の開発、木炭の科学、と研究の場所や職場が変わるという外形的要因が働いていたとはいえ、右顧左眄の研究対象の変動であった。
飲み屋さんでカラオケを歌った時に「とても良い声ですね」と誉められる時は、「音程が取れていませんね」と同義語であるように、「色々な研究に取り組まれますね」というのは、「何が専門なのかよく分からない」と同じ、研究者にとって必ずしも良いことではない。わたしも、「あなたのご専門は」とか、久々に会った方から「最近、何を研究されていますか」と聞かれるのが一番つらいものであった。
研究がその発展段階にしたがって変化し、新しい領域に展開していくのは重要なことであるが、ちょっと一輪の花が咲いたところで別の木に移っていくのは研究者にとって戒めるべきことだと、自分のことを重ね合わせて強く思っている。こだわりの「執」は学問や研究にとってとても大切である。あえて私の研究のこだわりを上げるとすれば、木材のピットの研究であろうか。前に書いたように、学位論文のテーマがピットの形成と微細構造についてであったが、木材の防腐・防虫の研究に従事するようになり、このピットが再び登場してきた。耐久性の付与するために木材に薬剤を注入するが、その際ピットをどのように開孔するかが課題になっている。「ピット再考―木材穴学事始」と題する総説を1989年に書いてその重要性を喚起した後、ピット攻撃戦略の研究を展開してきた。
ところで、趣味を問われると、とりあえず読書です、と答えることにしている。実際、中学時代には文芸クラブに属したこともある本好きで、それは今でも続いている。推理小説では松本清張、時代小説では山本周五郎、池波正太郎、藤沢周平のものが愛読書である。このうち、「さぶ」「樅ノ木は残った」「青べか物語」などで知られている山本周五郎であるが、わたしは彼の小説の背景にながれる「ああ、そうだったのか」という言葉に惹かれている。
自分の行ったことで申し開きをしない、後で周囲の人がその意味を悟り、「ああ、そうだったのか」と納得するという生き様である。これは最近では、まったく流行らない言動で、むしろ理解を得るように説明することが重要とされている。大学においても社会へのアカウンタビリティーが必須になってきていて、言葉による説明や主張がまず大切になっている。しかしながら、わたしの気持ちの上ではくどくど説明しなくても、ということでやってきたことも多い。はたして、後に「ああ、そうだったのか」と納得してもらえることが出てくるのか。
退職を機にという広報委員会からの依頼で、思いつくままに書いてみた。京大に帰って来てからも30年近くを数えるが、昔より今が、若い時よりも年齢を経てからの方が充実した時間をもてたのはうれしいことであった。生存圏研究所の方々に、そして多くの皆さんに、改めて御礼を申しあげたい。
(生存圏だより、No.8, 2010年3月に掲載したものを増補)