「彗星夢雑誌」を説く
雑賀貞次郎
四
彗星夢雑誌は、翁の没後、羽山家で保存につとめ、毎年曝涼を行ひ蠹害と腐朽を防ぐに注意し、かつ散逸をおそれて門外不出としていたが、同家が不幸にして絶ゆるにいたつたので、姻戚-羽山家出のふじ女の帰嫁している山田栄太郎氏が保存することになつたもので、山田家でも丁重に保存されているのです。
紀州田辺に幡居される南方熊楠先生は、大正初年の交、数年間にわたり暇々に夢雑誌を全部筆写されて所蔵されています。これは先生と羽山家とのなみなみならぬ御関係もあり、先生としてはこの秘冊が唯原本のみを存するだけでは心もとなく、副本をつくり逸失に備へたいといふ深い心構へが、これを調査される以外に存したことゝお察しする。山田氏も亦先生羽山家との御関係から、喜んで門外不出の禁を解いたのであつた。かくて先生は夢雑誌に録されている俗語、方言俚俗、その他について註を加へられる御意向と承つていますが、それに多大の期待をかけている次第です。又、記事中に長州に関係したものが多いといふので、明治末に南方先生の御紹介で、子爵野村靖氏の希望に応じ暫く子爵の許に送つていたこともありますが、間もなく子爵の薨去にあひ何等かの企書はあつたらしいが、それが空しくなつたようです。又、昭和の初年に京都帝国大学教授文学博士三浦周行氏が見て、参考資料として同大学へ寄附を希望されたが、しかし翁が多年の労力に対しては、裔孫および縁故者としては仮りに寄附するとしても、何等かの記念事業を行うた後でなくばとの意向から、その申し出を保留した。又、日高郡誌、日高近世史料、鷲山余光の筆者で日高地方の史実の権威と推されている森彦太郎氏は、和歌山県教育会の事業だる紀伊先賢列伝の編纂委員として、維碩翁の伝記をものすべく、その調査と資料採集のため山田家で夢雑誌を閲覧し写真を撮っていられます。それから私が南方先生の御紹介で抄録をしたのでした。こんな工合で必ずしも門外不出を鉄則とは致してをりませぬが、唯、以上の極めて少数の人々の目にふれたゞけで、殆んど門外不出に等しく、而して収録事項は濫りに発表しないことになつてをります。
従来、夢雑誌を紹介したものは、森彦太郎氏の日高郡誌(一五一〇-一五一二頁)の羽山維碩伝のうちに「其の筆録の現存するもの彗星夢雑誌百十四冊あり稀代の珍籍とす」と記されているのと、同じく森氏が雑誌紀伊郷土第十四号(昭和十一年九月発行)に「羽山大学の彗星夢雑誌」と題して二頁余にわたり紹介されているのと二つであります。又、記事を引用しているのは南方熊楠先生が雑誌日本及日本人第六九五号(大正五年十二月発行)に「本邦に於ける米国船員の逃亡」と題する一文のなかに引かれています。又、私は昭和十四年 月の雑誌■と伝説第十一年三月号に「流行の墓参」と題して発表した短い文の中に夢雑誌の原文は引かずこうした記録があると述べています。まづ、今までのところ、その位に過ぎません、といふのも抄録とか全文とかゞ一冊の本となつて世に出てくるまで、徳義上あまりお喋べりせぬようにしているからです。
彗星夢雑誌は全く一稀代の珍籍」です。これが公表されたならば学会を益すること其だ多からうと存じますし、殊に紀州のことでは紀州でセンセーションを起すものが少くないと信じます。こうした珍籍を早く読み得た幸福を深く喜び、南方先生と山田家に厚く感謝の意を致しますると共に、この記録が一般に公開されて私どもの同好、同僻の士に恵まれたいことの一日も早からうを祈る気持が一ぱいです。
追記、本文は眼疾のため一日に一枚書いたり数日そのまゝにしたりして成つたものであり推敲も出来なかつたから、いろいろ不備な点が多からうと思ふ。御諒察を請ふ。