手代衆男女ニて弐十人計即死有之
怪我ノ人多御座候由右ニ付当地陣家
鈴木町御代官昨日備中へ出立御座候
右は当節柄兵粮方の御手支御座候故
と相察候且御使番御目附方も早々御
出張相成可申事ニ相聞へ候倉敷御囲米
蔵等の定て焼失相成候事とも風聞仕候
当時西一条ニ御混雑の折柄又々
右様浪士乱妨の事出来恐入候義と存候
中国の義は先達て中同説ニ有之当
月二十一日?ニ毛利家芸州へ被出向候筈
の由其日限ニ至只今?の通リ候上は
早速ニ御遺発御動座御座候様御供
へ御沙汰御座候趣ニ相聞へ候何共恐入
候右もよう故が諸相庭段々高直ニ相
遣し候事共ニ候先右申上度早々 以上
恕堂
海荘尊君様
人々御中
本文申上候浪士寝初 百五六十人も人足共