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- ID:
- 37267
- 年:
- 2017
- 月日:
- 0113
- 見出し:
- ブラジルから浜松へ。
言葉も文化もかけ離れた地で木工作家になるまで
- 新聞名:
- 雛形
- 元UR(アドレス):
- https://www.hinagata-mag.com/comehere/15911
- 写真:
- 【写真】
- 記事
-
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湯浅ロベルト淳さんが、生まれ育ったブラジル・サンパウロから日本へと移住したのは26年ほど前。
はじめは、浜松の隣町である磐田に降り立ち、その後、浜松へと居を移してきた。
浜松の山間部にある古い日本家屋にアトリエを構え、ロベルトさんが木工作家として活動を始めるまでには苦労と隣合わせの長い道のりがあったけれど、その一つひとつのエピソードには、ブラジル人らしいポジティブさと純粋に自分の手で何かを生み出す喜びのようなものが感じられた。
写真:中村ヨウイチ 文:石田エリ
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工芸木工浜松市移住静岡県
ブラジルから静岡へと
移住してきた10代のころ
静岡県は、日本で2番目に在日ブラジル人の多い地域だと言われている。
その静岡県の中でも、ヤマハやホンダなどの生産拠点でもあった浜松市や磐田市には、特に多くのブラジル人たちが暮らしていた
その背景には、ブラジルの経済が悪化した1984年頃、日本ではバブル景気の真っ只中であったため、日本への出稼ぎブームが起こったこと。
そして、ブラジル国債がデフォルトした1990年には、日本で「出入国管理及び難民認定法」が改正され、日系2世の配偶者やその子ども(日系3世)に、新たな在留資
格が与えられたことなどがあった。
けれども、2008年のリーマンショック以降、日本におけるブラジル人の人口は、年々減り続けている。
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工房の入り口。
母屋の脇に、キャンピングカーの姿も
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工房のキッチンに並ぶ、ロベルトさんの木の器たち。
実際に使ってテストを繰り返す
木工作家の湯浅ロベルト淳さんの工房は、浜松市の天竜区にあたる山間にあった。
自分で少しずつ手を加えていったという古民家の縁側は見晴らしよく、その向こうには鬱蒼とした森が広がり、味わいのある木の壁に囲まれた居間では、ロベルトさんがつくる木の食器や小物がよく映えていた。
その雰囲気から
どことなく、ロベルトさんにはブラジルの血が少し入っているようにも見えたけれど、聞くと「両親ともに日本人。
生まれ育ったのがブラジルだからかな。
ハーフと言われることが多いんです」と、微笑んだ
お父さんは高松、お母さんは青森出身。
両親は、ともに日本からの移民としてブラジルで出会い、結婚をした。
そしてロベルトさんは、日系ブラジル人二世として、サンパウロで生まれ育った
「ずっと日本のことは、ただ遠い異国としか思っていなかった」というロベルトさんが高校を卒業したころ、ちょうどブラジルでは日本へ移り住む人が増え始めたところだったという。
「先に日本へ渡っていた従兄弟から、『日本はいいところだよ』という話を聞いて、なんとなく気軽な気持ちで日本に行くことを決めたんです。
その当時はまだ若かったから、親元を離れてみたかったのもあって、1年くらい働いてお金が貯まったら帰るつもりで……。
それが90年の3月のことでした。
でも、実際に日本に来
てみると、初めてのひとり暮らしで、給料もきちんともらえて自由に使える。
それがもう楽しくて、いつの間にか帰らなくてもいいかなと思うようになっていました。
当時はスズキやヤマハの工作機械をつくる仕事をしていて、もともと子どものころから何でも自分でつくるのが好きだったので、溶接、旋盤、組み立て、メンテ
ナンスまで、僕にとってはどれも楽しい仕事だったんです」
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母屋のすぐ隣にある、離れの作業小屋
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作業小屋の中には、少しずつ揃えていった木工機械が並ぶ
受け身ではなく、自分の力で何かはじめよう。
何かを手作りすることが好きになったのは、お父さんが看板屋さんだったから。
学校帰りにお父さんの仕事場へ行き、機械を借りて木を切りおもちゃをつくるのが大好きな時間だった
日本で働き始めて10年ほどが経ったころには、派遣から正社員になり、そのまま続けていくつもりだったのが、2008年にリーマンショックが起こり、ロベルトさんは会社から突然自宅待機を言われてしまう
「一年間は、自宅待機でも給料がもらえるということでした。
だから、いつよくなるのかわからない景気の回復を待つよりも、自分で何かを始めようと思ったんです」
そうしてロベルトさんは、子どものころから興味があった木工を自分で調べながら独学を始めることにした。
「でも、形あるものを作れるようになるのには、結構な時間がかかりました……。
最初は流木を使った大きな家具を作ったりしていて、本当は家具職人を目指したかったのだけど、それにはしっかりとした設備も知識も必要だったし、その頃には結婚して子どももいたので、大きなリスクを背負うことはできなかった。
そ
れで必然的に、小さな暮らしの道具を作るようになりました」
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木の葉をモティーフにした箸置きは、人気のアイテム
バターケース、器、スプーンと、身近で毎日使えるもの。
きめ細やかな木彫りのテクスチャーはとても手触りがよく、バターケースは蓋の丸みと木彫りの風合いを丘に見立て、その丘の上に小さな家を付けた。
そんなさり気ないあしらいがロベルトさんの作品らしさでもある。
最初は地元の小さなクラフトマーケットに出
店することからはじめ、徐々に日本各地のマーケットへと足を伸ばすように。
そうして少しずつ評判が評判を呼び、イベント側からも声がかかるようになっていった。
今では、お店からのオーダーも加わり、制作が追いつかないほどめまぐるしい毎日を送っている。
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本文中にある、ロベルトさんのバターケース。
丘の上に建つ家がイメージされている。
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「初めて出店した時は、2010年ごろだったので、まだ今のようにたくさんクラフトマーケットは存在しなかったんですけど、ここ5〜6年でずいぶん増えました。
実店舗ではなく、マーケットで売りはじめてよかったと思うのは、お客さんのリアクションがダイレクトにもらえるということです。
以前に買ってくれたお客さんから意
見をもらったり、SNSで僕の器に料理を載せてアップしてくれているのを見ると、『もう少し微調整してみよう』『もっとこういうものを作ってみよう』と、より使いやすく進化させていくことができる。
何より、ずっと使い続けられるものを作れないと、この仕事は続けていけないと思っているんです。
だからこそ、作っては実際に使
ってみて、意見を聞いて、更新していく。
実はそれも、僕にとっては楽しい作業なんです」
実店舗を持たないというスタイルは、何かに縛られず、より自由に生きていくための、ひとつのあり方。
企業が行うようなマーケティングも、売ることと同時にできてしまう。
顔の見えない誰かに向かって物を作る不安定さよりも、ずっと風通しが良さそうに見えた。
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オーバルボックス、木彫りや漆塗りの器、カトラリーなど、作品の種類も豊富に揃う。
「それに、マーケットに出店し続けているもうひとつの理由は、旅ができるから、というのもあります。
いつもキャンピングカーに乗って行くんですけど、会場では僕と同じようなクラフトマンたちがいて、夜になると車に集まってみんなでお酒を呑むんです。
それも楽しみのひとつになっています。
それに、こうして地方へ頻
繁にでかけるようになってはじめて、浜松という土地の良さを実感することもできました。
雪も降らないし、海も山も川もあって、いい風が吹く。
この気候や環境が、浜松の人たちの穏やかさとつながっているのかもしれないとも思います。
田舎暮らしがしたい人にとっては、とてもいいバランスの環境なんじゃないかなと、少
し自慢に思っていますね(笑)」
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今では、どこでも暮らしていける。
「今ではもう、ポルトガル語をちょっと忘れつつある」と笑うロベルトさんに、ブラジルに帰ろうと思ったことは一度もなかったのかと訊いてみた。
「もちろん、若い頃はありましたよ。
言葉の壁も大きかったし、何より国民性がまるで違っていましたから。
よくしてくれる人もたくさんいたけど、言葉が通じない分、差別されているのかもしれないと勘違いしてしまうこともあった。
そうなると被害妄想が止まらないんですよね。
今思うと、なんてことないようなことばかりなんで
すけど(笑)。
ブラジル人は、日本人のように迷惑をかけちゃいけないとか、時間を守らないといけないといった気の遣い方はあまりしないんですよね。
でもその分、周りの目を気にせず自分を自由に表現できる明るさがあって、おおらかで誰とでもすぐに友だちになれる。
どちらにもいい部分はあります
でも、日本に残ろうと強く思ったのは、子どもができたからでした。
子どもにとってブラジルの環境は、治安という意味でとてもハードですから。
そうした側面から見れば、日本は本当に安全で楽しい国だと思います
以前は、ブラジルから出稼ぎで日本に来て、稼ぐことが目的だから休みの日にも遊ぼうとせずに、ブラジルに帰ってしまう、というような話も聞くことがありました。
休みの日にちょっと出かければ、日本にはいいところがたくさんあるのに、それを知らずに帰ってしまうのはもったいことだなと……。
でも、今ではすっかり日
本に馴染んで定住するブラジル人も増えてきているそうです
僕自身のことで言えば、こうして日本という文化のかけ離れた国で26年も楽しく暮らすことができたんです。
いつか子どもたちが大人になって独立した時には、日本ではなくても、どんな国でも暮らしていけるだろうと、漠然と思っています。
何事も行けばなんとかなる、という自信がついたのだと思います」
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