井戸跡から兜が見つかったのは7月31日。西野さんは最初水おけと思ったが、翌8月1日に取り上げ、洗っているうちに「これはヘルメットそのもの」と実感。次の日にたまたま訪れた国立歴史民俗博物館( 千葉県佐倉市)の研究員も「兜に間違いないのでは」と指摘し、確信を強めた。
その後、県内の考古学関係者からも同様の見解が相次ぎ、今月6日に開いた調査指導委員会(委員長・岡田茂弘国立歴史民俗博物館名誉教授)でも、全国的に出土例がない木製の兜-とのお墨付きを得た。
西野さんは1982年から20年以上、徳丹城跡の調査を続けてきただけに「過去に『別将』の文字が書かれた土器や運河が見つかったのも大きな成果だったが、今回は日本の武具の歴史にとっても画期的な発見に なった」と喜びを表した。
調査指導委員の平川南・国立歴史民俗博物館長も「徳丹城といえばこの兜となるぐらいのインパクトがある」と価値を認め「地道にやってきた調査が、やっとお宝にぶつかった。町民の皆さんも見て、すご いと実感してほしい」と話した。
元慶(がんぎょう)の乱を記録する歴史書「日本三代実録」では、蝦夷が略奪した政府軍の武具として鉄、革、木の3種類の兜が記され、このうち木の兜が全体の約6割と最も多い。しかし、木は腐りやすく、遺物として 出土することがなく実態は不明だった。
調査指導委員の佐藤信東京大教授も「井戸で水くみ用に転用されていたため、まれな形で残った」と幸運に感謝。今回の調査では、古代の城柵(じょうさく)では出土していない工房跡も2カ所見つかり「これも価値あ る発見。城柵研究をリードする成果だ」と強調した。
兜には、錏(しころ)穴にも見える穴が一周する形で22個あったほか、樹種なども今後の検討課題となる。
西野さんは「国民の宝を代表して管理するような気持ちで、まずは保存処理、データ解析に当たりたい」と語った。