ID : 9774
公開日 : 2008年 12月 9日
タイトル
池内紀・評 『「日本の住宅」という実験…』
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新聞名
毎日新聞
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元URL.
http://mainichi.jp/enta/book/news/20081207ddm015070007000c.html
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元urltop:
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写真:
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池内紀(おさむ)・評
◇『「日本の住宅」という実験--風土をデザインした藤井厚二』
(農山漁村文化協会・2800円)
◇80年前にエコハウスをつくった建築家
たぶん知る人はいないだろう。藤井厚二という建築家がいた。大学で教えながら、自分の考える「日本の住宅」をつくった。考えを具体的に示すために、自宅をモデルルームにした。八十年あまりも前のこと。考えに共鳴
した人々の依頼のもとに、数十の美しい住居が生まれ、そのいくつかは、今もかわらず暮らしの場になっている。
明治二一(一八八八)年、広島県福山の生まれ。生家は土地で知られた素封家で、幼いころから絵画や書、茶道具に親しんだ。東京帝国大学工科大学(現東大工学部)で建築を学び、卒業後、竹中工務店を経て京都帝国
大学の講師、助教授、ついで教授。昭和十三(一九三八)年、直腸ガンにより死去。四十九歳だった。
早い死はべつにして、ごく恵まれた生涯である。聡明(そうめい)で、美的センスのゆたかな人だったのだろう。死を予知して墓をみずから設計、そこに葬られた。
いい時代に生き、そして死んだといえる。その仕事は大正から昭和初期にかけてのこと。世界大戦前の小春日和のようなひととき。
「大学での指導のかたわら、住宅を中心に六〇棟近くの建築を設計し……」
写真や見取り図がどっさりついていて、建築のシロウトにも建物を想像することができる。ふつう「美しい日本の民家」などといわれるタイプと似ているが、あきらかにそれとはちがうだろう。夏が厳しい気候や風土に応
じながら、それを逆用する工夫がされている。タタミ主体の部屋と椅子とを、どのように「共生」させるか。インテリアや照明も、すべて建築家藤井厚二がデザインした。
ひとことでいえば、一人の「総合芸術家」にあたる。ヨーロッパには、この種の才能を支援するパトロンがいたものだが、藤井厚二の場合、それは京都の財力ある町衆だったようだ。この本のなかのとりわけ興味深いくだ
りである。
「藤井と家具ということでは、『京都家具工芸研究会』との関係も重要である」
昭和初年に老舗の家具商がよびかけて生まれたグループで、建築家、工芸家、陶工家、金工家らの選(え)りすぐりが集まった。実務を支える指物職人や家具職人を含めてのことだろう。江戸の初め、本阿弥光悦が京都
の北麓(ほくろく)鷹ケ峰に名うての職人を集めて「光悦村」をつくったのにならい、京都・太秦(うずまさ)に広大な土地を求め、工芸村をつくろうとしたが実現は見なかった。
昭和十二(一九三七)年であって、藤井厚二の死の前年。二・二六事件が起こり、国中にキナくさい臭(にお)いが立ちこめていた。わが国がまっしぐらに軍国主義へと走りこむさなかに、時代の風向きと美意識で対抗する
ような一つの運動があった。京都の伝統文化がつちかってきた底力にちがいない。
戦後の現代建築は土木技術、鉄骨、コンクリート、ガラスといった素材、徹底した西洋化の道を突きすすんだ。建築家は曲芸のようなモダンデザインを競い合って、つぎつぎと世にときめくスター建築家が誕生した。そ
の「名作」とされるものの大半は、誕生日を迎えるごとに古くなり、メンテナンスと補修に追われなくてはならない。
藤井厚二の残した建物の調査にあたり、小泉和子は述べている。どの家族も「住宅をたいへん愛して居られて、このことが印象深かった」。八十年前のエコハウスは、年ごとに新しくなる。
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