ID : 826
公開日 : 2006年 4月19日
タイトル
慶南7号墳で発見 日本にみられるクスノキ製木棺
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新聞名
民団新聞
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元URL.
http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=1188&corner=4
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元urltop:
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写真:
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一昨年、慶尚南道昌寧郡の松 洞古墳群(7号墳)からクスノキ製の木棺が発見された。長さ3・3㍍、幅0・8㍍の木棺であり、これほどのクスノキは、韓半島では自生しない。わずかに済州島にみられるが、日本
列島のようには巨木にならない。
木棺は船のように湾曲し、かなりの大きさのクスノキをくり抜いたものである。古墳は植民地期に盗掘されていたが、幸い残された土器や副葬品などから、この地域の首長クラスの墳墓で、500年前後に造営されたとみ
られている。
昌寧は、伽耶諸国の一国、比 国であり、『日本書紀』にも倭が関連した国(比自)として現れる。文献などにより6世紀中頃には新羅に服したとされるが、この度の発掘調査によって、古墳の築造法や出土遺物から新羅
の強い影響が確認され、古墳の性格をめぐって今後の調査結果がまたれる。
最も興味をひかれるのは、クスノキ製の木棺の来歴である。これほど保存状態のよい舟形木棺の出土例はなく、その材質と形態から、倭との関係が一部で取りざたされていた。
偶然にも発掘を担当した国立昌原文化財研究所と早稲田大学朝鮮文化研究所とは共同研究を進めていることもあって、発掘直後に木棺を古墳内で直接みる機会に恵まれた。
その時、私の脳裏をかすめたのは、なぜ韓半島で発見される木棺は、ことごとく韓半島で自生しない木材が利用されているのかという疑問である。1971年に発見された百済の武寧王陵も、王と王妃の棺は日本からもた
らされたコウヤマキであることが後に明らかにされた。
百済最後の都があった扶余の陵山里古墳群(王陵地区)でも、5基の古墳から出土した木棺片は、韓半島には自生しないコウヤマキであった。一方、新羅の都・慶州にある98号墳や金冠塚の棺材も、最近の調査でクス
ノキ製であることが判明している。
ところで、日本の前方後円墳もまた多くがクスノキを木棺に利用していたことが明らかにされている。
クスノキは腐食しにくく、棺材に適しているのである。それゆえ、韓半島の百済、新羅、伽耶の国々の諸王たちは、わざわざ日本列島の棺材をもとめたということになるのではないか。
一見、埒外のような推定に思われるかも知れぬが、実は中国古代では、そのようなことは当然であった。後漢時代の『潜夫論』によると、漢の都・洛陽の人々は、梓やクスノキなどの棺材を、数千㌔隔てた江南地方から
運び込ませていたのである。
これまで韓半島南部の豊富な鉄が、6世紀頃まで日本列島にもたらされていたことが注目されていたが、その代価については諸説あって不明とされてきた。生口(奴隷)説、コメ説、塩説など、どれもが説得力に欠けて
いた。
日本の棺材こそは、まさに鉄の代価になりえたのではなかろうか。御世の国に旅たつ王者たちにとって、中国同様の良質な棺材を求めることは切実であったはずである。
このたび伽耶の一国、比自国から出土したクスノキ製の木棺は、古代韓半島と日本列島の交流を解き明かす大きな鍵となるにちがいない。
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