はじめに
当地は、昭和20年代後半まで自動車道がなかったので、生産されたすべての丸太材は、地域を流れる日置川の支流・城川(じょうかわ)を利用して、本流である日置川の合流点まで流送し、引き続いて本流に送り込み、製材所のある日置の町まで流送していた。
当時、地内の各場所で立木を伐採し、造材して生産される丸太材は、所有者等(山林の所有者、立木の所有者)が、それぞれに作業員を雇用して行っていた。出材作業(城川縁までの搬出)も各所有者等が作業員を雇用して行っていたが、地区外への流送については、他の多くの所有者等と一緒に河川を利用することが多かったため、委任を受けた当地内の世話人が代行して作業員を雇用し、流送を果たしていた。
さて、城川縁までの出材作業はグループで仕事を請け負うことが多く、少量の間伐丸太等は人肩で搬出したり、木修羅(しゅら)または、やえん等を設置したり、城川縁から離れている箇所では、さらに木馬(きうま)道による搬出も組み合わせて川縁まで運び、集積した。
また、城川に注ぐ幾つかの谷の中にも、水量を増やせば丸太を流下させることのできるなだらかな谷が2~3あったので、このような谷には、所有者などが共同出資して鉄砲堰(てっぽうぜき)を設けていた。
その後、昭和の中期からは林業の機械化が進み、中でも、すばらしい発展を遂(と)げてきた林業架線による集材技術が、当地区にも幅広く浸透し始めた。
同じころ、県道・林道等の整備や開設も進み、これに伴ってトラック輸送への切替えが急速に進展した。もちろん、丸太の生産手段・方法も、伐木の機械化をはじめ造材および乾燥期間等大きく変わった。
このような変遷をたどった結果、マニュアルなどない、体力と経験のみで古くから代々受け継がれてきた丸太の生産をはじめ、その搬出方法、特に木修羅・やえん・木馬と木馬道、それに鉄砲堰など、どれも順次姿を消してしまった。
同時にこれらの施設を設置する技術を受け継ぐものもいなくなったので、まだ記憶が残っているうちに記録に残したいと考えた。長年、作業グループのチーフを務めた堀口が図とその説明書を作成し、和田が本文を取りまとめたのが本稿である。