さきに紹介した連結式架線の誕生には二人の隠れた尽力者がいる。
いまからさかのばること半世紀の昭和10年ごろ、長野県上伊那郡中川村上片桐から15キロあまり奥まで林道が開通した。
そこからさらに奥に分け入れば中央アルプスの峰々につづく。
一帯の大原生林を王子製紙株式会社が買収し、専属請負業者株式会社岩倉組が開発事業に携わった。
林道の終点に岩倉組事務所があり、その横の架線土場には奥から伐出した材木が山積みされ、それをトラックが下まで運んでいる。
田舎ではトラックをみることさえまれなこの時代に、王子製紙は何台ものトラックを回していたのである。
山内には200人余の伐出作業員が働き、この物語の主人公、三重県熊野市神川町赤倉出身の熊倉岩夫、山本豊両人もこのなかにいた。
地名変更以前、神川村字赤倉であったころに同地に生まれたかれら二人は、幼いころからの親友である。
二人とも手先が器用で、いつも友人の先に立って種々の工夫を凝らしてはみんなを喜ばせていた。
その後、成長した二人は立派な架線技術者になり、大勢の作業員をつれて岩倉組架線部責任者として伐出に従事していた。
架線による搬出を一手に引き受け、かれら二人は会社の期待以上の働きをみせていた。
架線の終点土場から最奥の伐出現場までは約20キロ、その間、曲がりくねった山すそをぬうように激流が岩を潜り、滝を落ちる。
水面にはきらきらと走る金粉が交じって流れる。
それぞれの谷から流れる水が合流して大きな川になり、さらに下流で天竜川に合流する。
このような川の両側を広い範囲にわたって生い繁った立ち木を奥へ奥へと向かって伐採していく。
伐採が進むにつれて架線の位置も奥へと移っていくが、普通架線では積み替え式になるため、奥まで普通架線にすれば十数回の積み替えになる。
最初からこのことを予期していた熊倉、山本は、7キロばかりの連結式架線を考え出した。
そして計画を実行するときがきた。
第一号幹線と名づけて着工、架設のためとて運材を中止できず、架線で運材を続けながら全長7キロ余の幹線工事に専念した。
7キロの長距離ではワイヤーロ-プ一本での直通はむりであり、図のような連係連結方式を採用した。
途中、数か所、この方式でワイヤーロープの強弱を助けて工事を進め、敷か月の長い日数をかけて第一号幹線が完成したのである。
いょいよ試運転の日。
事務所はもちろん、山内のすみずみにまでこの日が知れわたっている。
なかには仕事の手をとめて見学する者もいた。
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熊倉、山本は前もってクリップ付きの特製矢形を用意していた。
ふつうの矢形よりはひときわ大きく、第一号荷物をかけてみてもびくともしない。
そこで発動機を使って送り出した。
終点土場に電話して空矢形をかけさせて矢形の配置を決め、約400メートルの間隔をあけて第二号荷物をかける。
だが、惰力ではまだ動かない。
発動機を再度、使ったが第一号荷物に比べ発動礫にかかる重量感は軽い。
こうなれば第三号機をかけると惰力がつくものとみんなは思い、第三号荷物をかけたのである。
するとこんどは発動磯の力をかりなくてもゆっくりと走り出した。
居合わせた大勢の見学者は声をあげて喜ぶ。
この調子でいけば、第四、第五の荷物をかければ必ず惰力による運搬はまちがいない。
さて、荷物はがらがらとゆっくり走っていたが、それまでの歓声も束の間、突然、制動機が停止し振動だけになった。
矢形のクリップが緩みスリップしながら荷物が走っているのである。
あれよ、あれよと見ているうちに荷物に惰力がつき、すごい勢いで前の荷物に打ち当たり、ばらばらに飛び散る。
居合わせた者はただあ然とするだけだった。
矢形の走る振動でクリップのねじが緩みスリップしたことに熊倉と山本は気づいた。
そこでクリップのナットの手に図のように重りをつければよいと考え、ひと回り大きなクリップにつくり変えたのである。
そして安全を考え・、ミニクリップを一緒につくり、翌日ふたたび試運転に臨んだ。
しかし前日の荷物の一つが途中にぶら下がっているため、これが問題である。
このまま荷物をかけて送れば必ずスリップして故障の原因になる。
そこで支柱で落とすことにした。
作業員が支柱に先回りして待つことにし、矢形を準備して荷物をかけて送り、支柱からの合図でとめて待っていると、はたして予定どおり荷物を落としたとのことである。
どんと反動がきた。
予定の間隔で第二、第三の荷物を送り出すと、前日と同様、惰力でゆっくりと走り出した。
手間はかかるがスリップの心配はなく四機目からは調子よく走り出す。
これで終点に着いたときに補助クリップに荷がかかっておればクリップは不成功である。
図でみるとおり、補助クリップの使い方に工夫がある。
短い細いワイヤーロープを矢形にかけてその端をテールに固定している補助クリップに縛りつけ、もし矢形のクリップが緩んだ場合、ずれても補助クリップでとめることになる。
このように手間暇をかけながら荷配りをして矢形の配置を終えた。
めた。
補助クリップを使いながら作業をつづけ、一方で二人はその原困究明に余念がなかった。
クリップの改良いかんにょって、中央アルプス大開発の生命線ともいえる第一号幹線の成功、失敗が決まる。
いいかえれば、開発の成否は二人の肩にかかっている。
大きな使命感をおぼえながら二人は研究をつづけた。
クリップが締まっているにもかかわらず、ずれているのが不思議である。
原因はどこか? 二人は考え抜いた。
矢形が荷をつけて走るとき、振動で目に見えない緩みが生じるが、分銅が重みになって締める。
つまり、振動と分銅で、クリップは緩んだり、締まったりを繰り返していたのである。
針鋼がなければクリップは開け放しになるが、分銅の重みで全開にはいたらなかったのである。
ついで二人はボルトに注目した。
補助クリップは矢形クリップより小さいが、スリップしない。
このことほボルトに関係があるのでは、と考えたのである。
補助クリップのボルトは細くねじ山も細かいのに比べ、矢形クリップのそれは大きく太い。
このねじ山の違いに原因がある、と二人は判断した。
正解であった。
飯田市の鉄工所にねじ山の改造を依頼した二人は、それが届くのを待って試運転を再開した。
念のために補助クリップも併用した。
そしてテールが半回転したとき、改造クリップのついた矢形が土場に到着した。
調べてみるとこんどはクリップに異常はない。
二枚、三撥と到着するがいずれも異常はない。
さらに二回転、三回転、すべて異常はなく、二人はここにきて初めて成功の確信を得た。
クリップのねじ山を細かくすることがクリップの第一条件であることをつきとめた。
こうして、熊倉、山本両人のひとかたならぬ苦心と努力が、連結式架線を生んだのである。
これの開発こより中央アルプス大開発は軌道にのり、以後、ますます発展することになる。
幹線の成功で事業は拡大し、伐採作業員は奥へ奥へと進み、それに伴う物資輸送一切をもこの絶縁が引きうけた。
ひきつづいて第二号幹線の架設にとりかかった。
前回よりも距離は短く、また成功後のことなので、それほどの苦労もなく順調に完成した。
両線の開通ですべての作業に活気がで想像以上に事業が発展したのはいうまでもない。
熊倉、山本の二人は人柄も温厚で人望もあり、ひとかたならぬ世話を受けた私にとっても二人は
患情の人である。
戦後、連結式架線は急激に普及、山林事業に多大に寄与した。
連結式架線の生みの親、熊倉と山本の功績をここにたたえ、後世に伝える。