被爆アオギリからの望み
・毎日新聞 2006/7/7
「アオギリの語り部」と呼ばれる沼田さんは、22歳の時にに被爆した。当時旧広島逓信局(現日本郵政公社中国支店)の職員だった沼田さんは爆風で飛ばされ、がれきの下敷きになった左足は皮膚を3センチほど残し、大根の輪切りのように切れていた。原爆投下から5日目の朝、仮設病室の旧広島逓信局で左足は切断された。左足は腐り始めていた。沼田さんには婚約者がいたが戦死し、「生きていてもしょうがない」と絶望し、川に飛び込んで死のうとしたが、直前で妹に止められた。そのとき、被爆し、表面がケロイドのようになりながらも細い枝を出し、先に小さな芽をつけ行きようとしているアオギリをみて、アオギリが『どんな事があっても生きるんだよ』といっている気がした。人生をやり直そうと教員資格を取得し、家庭科教師になったが被爆したことは隠し通していた。平和運動も被爆体験を話すことも「変わった人がすること」だと思っていた。と話す。現在修学旅行生らに自分の体験を話す沼田さんだが、被爆体験を話せるようになるまで38年もかかったが、「死んだ友人たちが、あの日の事実を伝えるように私に命を与えてくれた。おばちゃんの話を平和の種として持ち帰って、各地でまいてほしい」という願いをこめ、卒業式の季節になると話を聞いてくれた約180の小学校にメッセージを沼田さんは送っている。