京都の緑茶
・毎日新聞 2006/6/29
江戸中期の1738年まで、お茶というものは文字通り赤黒い茶色のものであった。しかし宇治田原の製茶家、永谷宗円は新芽を蒸し、手でもみながら焙炉で乾燥させ、水色(すいしょく)が緑になる緑茶の製法を考案した。当時緑茶は「青製」と名付けられ、江戸・日本橋の茶門屋、山本嘉兵衛に持ち込まれ、全国に広がった。宗円が15年にわたり試行錯誤を繰り返した場所は、現在の京都府和束町原山である。南の和束町原山と北の宇治田原町湯屋谷の間にある鷲峰山は泰澄が再興したとされる脩験道の山で知られ、杉やヒノキの植林帯がとぎれると茶畑といった風景である。この修験道を通り和束の茶農家が湯屋谷の宗円のところに茶の製法を教わりに行ったにちがいない。現在も和束町原山と宇治田原町湯屋谷はともに名高い茶の産地として知られている。