栄華とはかなさ
・読売新聞 2005/4/12
豊臣秀吉の正室、北政所が居を構えていたのが西の丸。ここには秀吉も好んだ「桜」600本が並ぶ。1594年、5000人を奈良吉野に、大名や公家らを招いて、「吉野の花見」、4年後には、京都醐醍寺に700本の桜を移植して、「醐醍の花見」をした。この時は女性だけを招いた。この宴から醐醍のとき、秀吉の諸大名を支配する力が弱まっていたことが伺える。醐醍の花見の半年後、秀吉はこの世を去り、北政所は京都へ移る。「豊臣秀頼をもり立てる」という徳川家康に西の丸を譲るための隠棲だったが、家康は天守閣を築いた。そのことが石田三成らの反感を買い、関ヶ原の合戦となったのである。桜は戦国の世の移ろいも伝えて、西の丸を彩る。