330年愛され続ける「錦帯橋」
・産経新聞 2005/3/5
錦帯橋は330年前の江戸時代前期、岩国藩の3代目藩主吉川広嘉が架けたと言われる。城下を2分するようにながれていた錦川は増水時の水流が激しく、橋が押し流されてしまい、「流れない橋を架けたい」というのが歴代藩主の悲願であった。広嘉は明の帰化層が持っていた「西湖遊覧誌」に島伝いに石橋が架かっている挿絵を見てひらめいた。こうして、石を積み重ねた橋台の上にアーチ型の木橋を架けるという築城技術と木組みの技法を最大限に生かした希代の名橋が完成した。しかし、風雨にさらされるため、50年に1度は架け替えする必要があり、平成の架橋は13年度から15年度にかけて行なわれた。平成の架橋の指揮を執ったのは、地元大工の海老崎粂次さん。海老崎さんは「だれよりも橋をよく見ているので、絶対、地元の大工でやり遂げてみせる」と300年前の平面図をもとに、自分たちの工夫で橋を組み立てた。1つの橋に使われた部材は5千前後で、河原から橋の裏を見上げると精巧な彫刻のようである。橋の上を人が歩くと圧力で強度が増す仕組みにもなっていて、海老崎さんは「きれいなアーチをうまく作って、50年後の人が舌を巻く仕事がしたかった」と話す。錦帯橋長さ193メートル、幅5メートル、水面からの高さ11メートル。国産ヒノキ、マツ、ケヤキなど410立方メートルを使用。平成の架橋では、総工費26億円のうち20億円は貯めた入場料でまかなわれた。大正11年に国の名勝に指定された。