日本人の祖先のひとつであると考えられているオホーツク人が北海道のオホーツク海沿岸に、5世紀から10世紀にかけて暮らしていた。網走市や北見市では遺跡が発掘されている。1913年に考古学好きの米村喜男衛さんはモヨロ貝塚を発見し、縄文文化ともアイヌ文化とも異なる特徴の石器や土器、人骨などを発掘した。これがオホーツク人によるオホーツク文化である。作家の司馬遼太郎は米村さんを「日本のシュリーマン」とたたえている。市内の北海道立北方民族博物館に出土品の一部が展示されており、「オホーツクのビーナス」と呼ばれる婦人像がある。これは鯨の牙でできており、美しいオホーツク の女性の物語を彷彿とさせる。喜男衛さんの孫である米村衛さん(55)が館長を務める市内の網走市郷土博物館にも発掘品が展示されていた。衛さんは「オホーツク文化は、縄文や続縄文、同時代だったアイヌ民族の祖先の擦文文化とも全く異なる」と強調した。他にも、オホーツク文化の遺跡である常呂遺跡が北見市常呂町にある。約3000もの竪穴式住居跡は縄文、続縄文、擦文、オホーツクの各文化に属しており、文化の変遷を辿れる。うっそうとした「ところ遺跡の森」には竪穴式住居が復元されており、3つの資料館がある。北見市教育委員会の武田修主幹(57)は常呂町に古代から中世までのいくつもの文化が発達した理由を「海、湖、川、森すべて近くにあり、食料資源が豊富にあることで古代人が暮らしやすかったから」と説明する。近い将来、貴重な遺跡のある北見市は世界文化遺産の登録を狙っている。道北の稚内市や利尻、礼文島にまでオホーツク人の足跡が残り、紋別市にはオムサロ遺跡公園がある。近くにオムサロ原生花園があり古代人にとって暮らしやすい環境であったであろう海岸近くでは竪穴式住居跡が約200県発掘され、オホーツク人のものも中にはあった。 「シベリアと本州とも交易していたことを示す出土品も見つかっており、オホーツク人は交易が活発だったようだ」と市内の紋別市立博物館の佐藤和利館長(59)は説明した。佐藤さんは、オホーツク人が消えてしまったのは「内陸を中心に発展した擦文文化が、沿岸にとどまっていたオホーツク文化を吸収していったのではないか」と話す。あなたも北方民族の謎をたどる歴史ロマンを堪能してみてはどうだろうか。