「桜守」、佐野藤右衛門(とうえもん)。彼の祖父、14代目藤右衛門が「桜道楽」を始めたのは、彼の父である15代目藤右衛門が植木の仕事を任されるようになってから の事だ。彼と彼の叔父が家業に精を出すようになってからは、父も「桜道楽」打ち込み始めたと言う。また、彼自身も長男が本業をやってくれているお陰で、全国のあちこちに行けるのだと語る。 京都には、「五十、二十歳」という言葉がある。伝統家業の後継者が多い京都ならではの言葉だ。親が50歳になった時、息子は20歳ぐらいになっていると好都合で、50代なら親もまだまだ元気で、家業について色々と教える事ができる。還暦を迎える頃には、すっかり家業を任せられるのだと言う。彼の父は、桜守として全国各地を回っていた。全国に残る名桜の穂木(新芽のついた枝先)や苗木を集めていた祖父の遺志を継いだ形だ。祖父が生前手掛けていたという桜の図譜も、父の代で完成させた。彼らが代々集めてきた桜の花を、堀井香破(こうは)という日本画家に依頼し、一種ごと丁寧に描いてもらったそうだ。絵描きはずっと堀井さんに依頼していた。他の人を入れると、感覚が違ってくるからだ。こうして桜の花を残そうとしたのは、カラー写真などない時代に、ひそれぞれの桜が持つ色合いや光沢を、正確に残そうとしたからに他ならない。実に175種類もの絵が描かれたそうだ。これらは「桜」という題名で自費出版されている。「ここまでやったんだから、本にしておいた方がええやろ」という彼の父の思いからだ。初版発行は1961年(昭和36年)の事だ。日本人初となるノーベル賞受賞者、京都大学の湯川秀樹先生が序文を手掛けてくれた。彼の父とは付き合いが長く、湯川先生もまた、桜をこよなく愛していたそうだ。彼の父の桜に対する思いは、先代のそれよりも強いものだった。「桜」を出すために、山を一つ売ったほどだ。その当時、既に家業を継いでいた彼にとっては「なんでそこまで」という思いだった事だろう。しかし、彼自身もまた桜に対する思いは強く、西陣織の業者に依頼して、桜の絵を再現したテーブルクロスを作っている。彼の父は、京都御所で「右近の橘」と並び称される「左近の桜」を接木で残すという大役もこなしている。それはそれは気品に満ちた山桜だ。また、金沢市は兼六園の「菊桜」が枯死した際は、彼も父の手伝いをしたという。桜をこよなく愛した彼らに、迷いの色はなかった。