1995年1月17日の阪神大震災で公園の十数本のクスノキが2、3時間も火の粉に包まれ、シルエットになった。震災後、公園は炊き出しや集会の場所になった。焼けた廃材で、だんじりを作り、更地のままの通りを子供たちが引いて歩いた。その時はクスノキは真っ黒く焦げた幹をさらしたままである。樹木医になったばかりの河合浩氏は震災から4日後、被災地を回った。木々は意外に元気であった。横枝は折れていたものの、まっすぐな幹には被害が少ない。河合はこげた幹や折れた枝の傷口に薬を塗り、根もとの土壌改良をして歩いた。ただ、木を生き返らせることは樹木医にもできないのである。クスノキはどれも3分の2が焼けた。駄目だろうと内心では思っていた。ところがその春遅く、二回りも小さくなったクスノキの、燃えなかった側の枝に、小さな芽が出ていたことが奇跡に思えたのである。翌春には焼けた側の枝にも若葉が出始めた。震災から15年。炭化した肌をふさぐように、左右から新しい樹皮が盛り上がり、幅28センチあった焼け跡が、今は8センチになっいる。いつか焼けたかどうかもわからなくなるだろうと。