小川氏が名棟梁といわれた西岡常一氏に弟子入りを許されたのは昭和44年、21歳のときである。入門志望のきっかけは高校の修学旅行。法隆寺を見上げ、1300年前に造られたという事実に感激した。「おれもこういうもんを造ってみたい」ということである。卒業前、とりあえず奈良県庁で西岡楢光という名を教えられ、法隆寺を訪ね断られたがあきらめきれず、「仏壇は寺に似てる」と、東京の家具店や長野の仏壇屋に勤めた。3年後、島根や兵庫の神社で働いていたとき、法輪寺再建が始まった。やっと「お前ひとりなら来てもよろしい」と声がかかった。西岡のもとで修業を積み、やがて自身も弟子を取る立場になる。20代後半で副棟梁をつとめ、30歳のとき、宮大工集団の鵤(いかるが)工舎を設立した。昭和の高度経済成長期には仕事が相次いだ。百人を超える弟子が工舎に入り、巣立っていったが、「教えた ことはないなあ」と振り返って笑う。また師匠の名棟梁西岡常一氏がかんなを引いた木片は、紙よりも薄い1枚であった。窓ガラスに貼ると、光が透けてきた。端から端まで、見事なまでに均質な厚みで削り出されており、「かんなくずとは、こういうもんや」と話したという。小川氏はたった一人の弟子であり、奈良・法隆寺のそばにあった西岡の家に住み込んだが、師匠は「これはこうやって、ここはこう」というような教え方はせず、ただ黙って刃物を研ぎ、誰もいないかのように一人で木を扱う。その姿を手本に、ひたすらマネをするというのが修業だった。はじめにてこずったのは、刃物の研ぎ方である。仕事先の寺を自転車で往復する西岡に急ぎ足でついていくのが日課であった。そんな小川氏に、西岡氏は一片のかんなくずを渡した。研ぎ方、刃の調整、かけ方…あらゆる技術が完璧でないと、こうはならない。ついつい材木の仕上がりに目が向くが、削りくずにも技術の差は出る。くずと呼ぶのが失礼なほど美しい木片は、さまざまなことを教えてくれるお手本になったのである。身をもって知れ、そして進め。それが西岡の教え方であった。「数少ない一言に重みがあって、自分の中で百倍にもふくれた」。代を譲ったいま、前舎主という立場で仕事をしているが、同じように伝えていきたい、と願っているという。