阪神大震災で壊滅的な被害を受けた神戸市長田区の野田北部地区。「被災樹」の苗木が、住民により、大切に育てられている。「私たちは木に救われた。今度は私たちが木を助ける番」。来年1月で震災から15年。優しさを紡いではぐくまれた緑は、町の再生の証しとしてすくすくと枝を広げている。「この木は特別やね」。野田北部まちづくり協議会の浅山三郎さんはクスノキの葉をそっとなでた。震災で防火の役割を果たした被災樹の「子供」だ。JR鷹取駅近くにある大国公園のこのクスノキには今も焼け焦げたあとが残る。平成7年1月17日。当時浅山さんは、自宅を家族に任せて火の手があがる現場へと飛び出した。人命救助に駆け回る間も火の勢いはやまない。浅山さんは覚悟した。だが東側の商店街を焼いた火は大国公園で止まった。広い空間があったこと、そしてクスノキが「水の壁」になったことも影響したと思われる。2年後の春。焼けただれ枯れたと思っていたクスノキに新しい芽が出た。「あの時のうれしさといったらない。自然の脅威ではなく強さを感じた」。翌年には同じ公園内のソテツにクスノキの種子が飛び、芽吹いているのも発見した。だが親クスノキは1本が枯れ、ソテツも18年に撤去が決まった。浅山さんは苗をとりわけ近くの別の公園で育て始めた。浅山さんだけではない。震災直後、住民ボランティアグループが種や苗を持ってきてくれた。公園を中心に住民が集まるようになった。震災後に整備された細街路28本はすべて樹木の名。住民自らが名付けたものだ。焼けただれた親クスノキは樹医の治療によって、傷口も年々回復し、子クスノキは2㍍以上にまで成長した。「植物によって救われた。今度は、私たちが植物の命をはぐくんでいくんです」