v10.0
- ID:
- 46252
- 年度
- 2010
- 月日:
- 0603
- 見出し:
- ケヤキのダイニングテーブル
- 新聞・サイト名:
- 朝日新聞
- 元URL:
- http://www.asahi.com/shopping/iinekore/hito/TKY201006040235.html
- 写真・動画など:
- 【写真】
- 記事内容
- 静岡で5月30日に行われたラグビーの招待試合で、明治大学は早稲田大学を45対33で破った。監督は1990年、明大の主将としてラグビー大学日本一を達成した吉田義人さん(41)。昨年、12年間日本一のない母校のチーム再建を託され監督に就任した。秋田県男鹿市のガキ大将で、「この指とまれ
」と遊んだ日々がラグビーの原点という吉田さんの大切なものとは。
――見せていただくものは?
故郷・秋田のケヤキのダイニングテーブルです。家での取材は遠慮させて頂いているのですが、これは簡単に運べないので、来てもらいました(笑)。2008年12月末、身ごもった妻を秋田の実家に連れて行く時、秋田駅からレンタカーを借り、たまたま道の駅に寄りました。隣が家具も作る材木屋で、この切り株
に出会いました。子どもと妻と食事して話をするのが一番の楽しみで、息子にはこのテーブルを代々伝えて欲しいと思っています。家の顔というか、人が来て囲み、我が家を感じてくれる所だと思います。
――厚さは20センチ以上ありそうです。重さは。
脚もケヤキで、合計300キロくらいだと思います。加工後、09年5月の連休明けに業者4人で運んで来ましたが、道路から玄関までの階段は登れないとお手上げだったので僕も手伝い、何とか玄関まで上げました。3階のリビングまではクレーンで上げるしかないと言われましたが、僕は即座にひらめきました。
バーベルを120~130キロ上げるような学生に手伝いに来てもらおうと!各学年1人ずつ4人を選抜して、一緒に力を合わせました。彼らはプロ顔負けの見事な仕事っぷりでしたよ。謝礼に焼き肉を腹いっぱいごちそうしました(笑)
――樹齢は?
年輪、数えていません(笑)。ただ、これだけのものに出会うなんて、やっぱり強い星の下に生まれたと職人さんに言われました。
――相手は吉田さんと、分かった?
分かっていたようです。僕の思いとこだわりを聞いて、職人さんも意気に感じて作ってくれました。監督就任1年目、息子が生まれた年に完成したテーブルです。
「日本代表の時は、15分の1として、対面する相手に勝つことだけを考えました。8人が相手に勝てば試合に勝つ」
吉田さんが大学生の時、東京・八幡山グラウンドで撮られた北島忠治監督(右)と吉田さんの写真。「越えられないので、自分の写真を下に置いています」
――ラグビーとの出会いは?
小学校3年生の時です。秋田県男鹿市の田舎町のガキ大将でしたので毎日遊びを仕切ってました。ある日ラグビーボールを持ってきた仲間がいて、田んぼの雪の上で畦をタッチラインに見立ててやったのが初めでした。体もぶつかり合いボールも扱え、面白かったですね。
――1年生から明大のレギュラー、88年に19歳で日本代表に選ばれています。なにがポイントでしょう。
実は中学2年の時、椎間板ヘルニアで全然走れなくなったんです。数ヶ月後、復帰したら、練習で仲間について行けない。今まで練習後に仲間と駄菓子屋に寄っていたのをやめて、皆に追いつくため村の周りのランニングを日課にしたんです。土日は練習が午前中で終わるので、近くの観光名所、寒風山(35
5メートル)頂上まで往復3時間走りました。その結果、せいぜいクラスで一番程度だったのが。男鹿市全体で、100メートル、200メートル、リレー、走り幅跳びの4冠を達成しました。それ以降、目標を決め、自分が努力をすることを惜しまなくなりましたね。
――3時間ずっと走ると、長距離が強くなるのかと思いますが。
長く走っても、つまらないのでトレーニング方法をアレンジしました。観光地なのでよく車が通る。後ろから追い越されそうになると、こちらもスピードを上げ、できるだけ車について行く。車に並んでドライバーと目があって、驚く顔が面白くてますますやる気につながりました。
――インターバル練習ですね。
それがよかったのでしょうね。僕を天才と言う人がいますが、そんなこと思ったことないです。ただ自信持って言えるのは、高校、大学、日本代表、それぞれのカテゴリーの全国のラガーマンの中で一番練習したと思いますね。グラウンドだけでなく24時間、寝ても覚めても夢の中でもラグビー漬けの毎日だったの
で自然に成長することが出来たと思っています。
――87年の雪の早明戦でのトライも伝説ですが、一番の思い出は?
4年生の時に大学選手権で単独優勝をした時ですね。早稲田との決勝戦の決勝トライ。主将として1年間、選手と共に戦ってきた結果があのトライに結びついたと思います。主将としてチームをまとめようと思ったことは一度もありません。ガキ大将の頃の「一緒に遊びたい奴この指とまれ!」のように、約100人
の部員全員集めて、「日本一になりたい奴はこの指とまれ」と。ライバル早稲田は前年も優勝、スター揃いでてごわいチームでしたからね。
――04年から横河電機のヘッドコーチ、08年にディレクターに就任しています。
横河は80年代、強豪チームでした。再びラグビー部を強化しながら若手社員を育てるため僕に声がかかりました。プロコーチの話も頂いたんですが、プロ選手はいない現状から、僕も選手と同じように日中は社業をさせて下さいと頼みました。選手同様、社業を精力的に取り組みながらコミュニケーションすること
を選びました。ヘッドコーチ就任直後の試合は大敗。仕事を理由に練習参加者が圧倒的に少なかったので無理ありません。それをきっかけに選手との毎日本気のチャレンジが始まりました。それから四年がかりでトップリーグに昇格が実現出来たことに感無量でした。その年月の間にビジネスマンとしても社会貢
献活動を立ち上げ、最終的に部長に就任しました。大変やりがいのある仕事を任され人として鍛えられたことに感謝しています。
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