.
.
元URL.
.
.
.
明治以降、日本で活躍した外国人は、欧米文化を伝えた「恩人」と見られやすい。フェノロサやコンドルに始まり、カルロス・ゴーン氏もそうかもしれない。
レーモンド展の会場から。手前は「夏の家」の模型=神奈川県立近代美術館・鎌倉
群馬音楽センターや東京女子大など400を超える建築を日本で造ったとされる建築家アントニン・レーモンド(1888~1976)もその一人。神奈川県立近代美術館・鎌倉では21日まで、彼と、妻でデザイナーのノエミ
を紹介する展覧会が開かれている。だが、展示や関連シンポジウムからは、単純な「恩人」像とは異なる、日本との重層的な関係が見て取れる。
チェコ生まれのレーモンドは大学卒業後、米国へ。19年に、F・L・ライト設計の帝国ホテルの建設に参加するため、夫妻で来日した。以後、第2次世界大戦をはさむ10年ほどを除き、73年まで日本を拠点に、旺盛な設
計活動を展開。その事務所からは、前川國男や吉村順三といった、日本のモダニズム建築の中核を担う人材が輩出している。
レーモンドは、ライトやオーギュスト・ペレら、巨匠のデザインを自在に採り入れた。特に軽井沢「夏の家」(33年)はル・コルビュジエの図面からの直接的な引用で知られている。
東西のパイプ役――。大川三雄・日本大准教授がシンポでこう評したように、まだ情報の伝達が遅い時代に、欧米の先端デザインを日本に伝えたといえる。同時に、松隈洋・京都工芸繊維大准教授によれば、「木造建
築では、吉村や前川の発想を採り入れ、洗練させた」という。となると一方通行の「恩人」ではない。
鉄とガラスとコンクリートによるモダニズム建築に対して、開放性のあるその空間を木材で実現した「木造モダニズム」が日本にはある。レーモンドも木造による教会や住宅を残し、これに寄与している。「夏の家」もコ
ルビュジエをひきながら、地元の素材で、大工と相談しながら手づくりの木造に仕上げたという。
一方で、シンポや展覧会図録では、43年に、米国の当局の要請で、焼夷(しょうい)弾の効果を調べるために砂漠に建てた日本家屋を設計したという過去も紹介している。
「近代建築で見えていなかったものを、レーモンドを通して考えられる」と松隈さん。ある意味、「メディア」としての建築家。単に伝えるだけでなく、情報を選択し、ときには解釈・創造もできる優れたメディアとして。++/d
iv++