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- ID:
- 51744
- 年度
- 2011
- 月日:
- 1003
- 見出し:
- 同業集中で「強み」発揮
- 新聞・サイト名:
- 徳島新聞
- 元URL:
- http://www.topics.or.jp/special/131735504843/2011/09/2011_131736019981.html
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- 記事内容
- 津田海岸を埋め立てての木材団地建設推進へ、県内木工業界では受け皿の準備が進んだ。1963年に「県木材団地建設促進協議会」を結成。さらに団地建設の決定に伴い、66年には「県木材工業団地協同組合」を設立し、進出企業を募った。
68年には中小企業振興事業団の資金助成を受けるため、事業計画を策定。業種・業態別に「製材業」「卸売業」「木工業」など11協同組合が組織される。72年、この11組合によって県木材団地組合は「県木材団地協同組合連合会」に衣替えし、この枠組みは現在まで引き継がれている。
この間、ハード面としての木材団地(埋め立て地)は70年にひとまず完成。水面面積計170万平方メートルにおよぶ3カ所の貯木場、幅20メートルの基幹道路が訪れる者の目を奪った。市民に愛された松原は残り、緑地帯には公園も整備された。
そんな木材団地には、73年までに130の企業が進出している。ただ従来の立地場所からの「移転」が原則だったため、当初は進出希望企業も少なく、申し込みは30社余りにとどまっていた。
■ ■
状況を一変させたのが、65年の河川法改正だった。内水面の利用が制限されることになり、それまで助任川や新町川に貯木していた木材業者は対応を迫られた。団地への進出希望企業は一気に増えた。
完成時に進出したマツシマ林工の松島弘輔会長(78)は「市内の河川周辺に立地していた製材企業は、河川係留が禁止されるとあって死活問題だった。資金繰りなど、さまざまな面で苦労した企業もあっただろう」と言う。
そうした苦労の中でも一番頭を抱えたのは企業の進出区画の選定だ。土地は組合が一括購入し、それを各企業に割り振るため、調整が難航した。「組合が土地を持つまではすんなりいったが、各企業への割り振りには難儀した。しかし苦労した半面、木材関連企業が集中し、一つの武器になった」(松島さ
ん)。木材関係業者が集中することで、縦・横の連携が効き、情報交換も盛んに。今も変わらない、県木材団地の強みだ。
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一方、木材需要の推移はどうだろう。明治期には既に外材輸入は始まっていたが、戦争で一時中断。しかし戦後復興や高度成長に伴う住宅ブームの高まりから、50年代末から米材や南洋材などの輸入が急増。当初は輸入の総量規制があったものの、64年からは関税が全くかからない全面自由化とな
った。
国内における木材の供給バランスは、63年には国産材78%に対して外材は22%だったが、5年後には比率が逆転。団地完成後の70年には国産材46%、外材54%に。団地建設わずか5年で、日本の木材供給体制が大幅に変化したことになる。
このうち、県内の輸入量も年々増加し、60年度の3万7千立方メートルから、ピークを迎えた76年度には116万立方メートルと31倍にもなっている。県木材工業団地協同組合連合会の松田功副会長(65)=富士木材工業社長=は「貯木場には木があふれ、企業には活気があった」と思い出を語る。
しかしその後、住宅着工数の落ち込みやバブル経済の崩壊など、木材需要の落ち込みで輸入は右肩下がりに。2009年には6万6千立方メートルと、逆にピーク時の17分の1にまで落ち込んでいる。
もう一つ、ここ十数年の間にひときわ変貌を遂げたのが、海面貯木の激減だ。そもそも、徳島市内の河川の係留問題解消と外材の大量流入に対応すべく、大規模に整備された水中貯木場。だが現在の主力は陸上保管で、団地の様相は一変。
これは、外国からの輸入も丸太(原木)ではなく、付加価値をつけるために原産国で製材処理されたものが多くを占め、水中保管を必要とするケースが減っているためだ。
林業100+ 件不振や長引く不況で他県では衰退した木材団地も多い。「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」(映画「山猫」)-。徳島の木材団地が生き残っていくには、関連業界や消費者ニーズをとらえ、時代に合わせた変化を遂げられるかにかかっている。(経済部取材班)
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