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- ID:
- 49339
- 年度
- 2011
- 月日:
- 0104
- 見出し:
- 湖上に「丸子船」復活の夢
- 新聞・サイト名:
- 読売新聞
- 元URL:
- http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20110103-OYT8T00733.htm
- 写真・動画など:
- 【写真】
- 記事内容
- ヒノキやスギの香りが立ちこめる工場。松井光照さん(30)が、長さ6メートルの木造船の底板の隙間に、水漏れ防止のマキの皮を丁寧に詰めていく。「木を切り出すところから全工程が手作業。それが難しくもあり、おもしろい」
「琵琶湖最後の船大工」と呼ばれた松井三四郎さん(2006年5月、92歳で死去)の孫。大津市本堅田の琵琶湖岸に臨む「松井造船所」で、伝統的な製造技術を引き継ごうと、修業に励んでいる。
◇
「明治から昭和初期、琵琶湖では木造船が1万隻以上往来し、湖上交通の主役でした」。県立琵琶湖博物館の用田政晴・上席総括学芸員(55)はそう説明する。
しかし戦後、鉄船や自動車の台頭で急速に減少。同館が1999年にまとめた調査では、667隻しかなかった。特に、琵琶湖独自の輸送船「丸子船(まるこぶね)」は現在、1隻も使われていない。長さ17メートルと大きく、遠浅の岸が多い琵琶湖に合わせて船底が浅い。浮力をつけるため、丸太を半分に切っ
た「重木(おもぎ)」を両側面に付けてあるのが特徴だ。
昭和初期には船大工が40~50人もいた堅田周辺も今はひっそりと静まり、木造船業者は堅田に2軒、草津市に1軒だけになった。
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松井さんは、船大工の祖父と、その右腕として働く父三男さん(63)の作業を見て育った。祖父から「昔、琵琶湖には何千もの木造船が浮かんでいたんだよ」と聞き、古い写真や絵を見るたび、木造船への憧れを強くした。
高校生の時、「仕事はどんどん減っている」という両親の反対を押し切って、造船所の後継ぎになることを決意。大学卒業後、東京でのサラリーマン生活を経て、2005年にUターンして修業を始めた。
木造船の製造法は口頭伝承で、設計図はない。技を盗まれるのを防ぐためだ。「図面がないから造らないと廃れる。技術を伝えるのは、それができる立場にある僕しかいない」という思いも強かった。
初めて造ったのは、同年に建築された京都迎賓館(京都市)の池に浮かべる「剣先舟(けんさきぶね)」。長さ6メートル、幅1メートルほどで、剣の先のように反り上がった船首にするため、板をV字に曲げる工程が難しい。かんなを使うのも初めてだったが、「仕事は目で盗むもの」という考えの祖父と、父の厳
しい指導で、2か月で完成させた。
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木造船の需要は、実用から鑑賞用に移った。京都市下京区の西本願寺の飛雲閣(国宝)には、松井造船所が手がけた舟(非公開)が置かれている。同寺の文化財担当・山本正定(しょうじょう)主事(34)は「飛雲閣は池から舟で出入りする『舟入(ふないり)の間』が大きな特徴。舟があるからこその景観で
す」と価値を話す。
ただ、木造船に詳しい甲南大の出口晶子教授(53)(民俗地理学)は「県内での需要が少なく、このままでは琵琶湖独自の造船技術が廃れる。地元で保存の機運を高めることが大切です」と指摘する。
ささやかな動きはある。県立堅田高(大津市本堅田)の図書委員会の生徒たちは06年秋から、「丸子船を次の世代に伝えたい」と話していた三四郎さんの遺志を継ぎ、地元の保育園などで船を紹介。段ボールで作った船の模型を見せ、堅田の歴史などについて話をしている。
指導する同高司書の小石清美さん(47)は「丸子船という先人の知恵や歴史に、生徒たちの色を加えて継承してほしい」と期待する。
◇
松井さんの夢は、丸子船を琵琶湖で復活させること。09年から、ブログで船大工の仕事をPRしているほか、船の営業に出る計画も温めている。
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