ID :
14044
公開日 :
2009年 11月18日
タイトル
[ベルリン壁崩壊20年 森林首都に学ぶ
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新聞名
東京新聞
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元URL.
http://www.tokyo-np.co.jp/article/technology/science/CK2009111702000140.html
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元urltop:
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写真:
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東西ベルリンの壁が崩壊し十一月九日で二十年がたった。冷戦の象徴だったドイツの分断都市はその後、緑豊かな“森林首都”として成功を収めている。街づくりに携わってきた同市の新旧二人のキーパー
ソンに、東京への提言を聞いた。(社会部・蒲敏哉、写真も)
「都庁はケルンの大聖堂のように巨大だがそれをしのぐように巨大なビルが壁を造っている。街全体が灰色の建物で埋め尽くされているようだ」
壁の崩壊(一九八九年)後、九一年から二〇〇六年まで、ベルリン市建築・住宅庁建築担当局長などを歴任したハンス・シュティマン、ドルトムント工科大名誉教授(68)は東京の印象をこう話す。
東京二十三区の面積は約六百平方キロメートル。屋上緑化、河川、公園を含めた「みどり率」は24%とされる。ベルリンの面積は約九百平方キロメートルで森林や湖沼、農地を入れた緑化率は43%。東京二十三区の人
口が約九百万、ベルリンが約三百四十万人と人口密度の差はあるが緑化率が大きく違う。
シュティマンさんは「終戦直後、ベルリンに個人所有の土地は12%しかなかった。富裕層は米国などに、普通の人々もミュンヘンなどへ移った。この特殊事情が行政主導の街づくりを可能にした」と明かし「冷戦中、西ベ
ルリンはロサンゼルス的な街を、東ベルリンはモスクワを志向した。統一後の課題は、この不整合をどう整えていくかだった」と敗戦後の歴史を説明する。
その上で「米国的な街づくりへの期待に抗し、私は一九三〇年当時のヨーロッパの街並みへの回帰を目指した。建物の軒の高さ制限は二十二メートル。道路の最大幅は二十八メートル。都市計画とは、統一的な街並みを
守るためにある」と強調する。
高層化が続く東京。その街づくりについて「緑の確保には、敷地を手放す個人宅を購入し、街のあちこちにポケットパークを点在させる方法が有効だ」と提言する。
「ベルリンにも大きな公園はあるが住宅地の小さな公園が緑化を下支えしている。資金はかかるが、細切れで土地が売られていくのを見逃さず行政が買い取る仕組みをつくるべきだ」と主張する。
その一方で「もう東京には建物が建ちすぎた。緑を増やすにはビル屋上の緑化推進が現実的」と主張するのが現在、ベルリン市都市景観課で森林・狩猟・植生保全リーダーを務めるイングリッド・クローズさんだ。
「ベルリンの都市計画は一八六二年、現在の目抜き通り、ウンターデンリンデンを中心に区画をつくったのが始まり。一九〇〇年代初頭には、住宅には太陽・空気・光の三要素が不可欠として、アパートに中庭を取り入れ
るなど緑化を進めてきた」と説明する。
「個人の土地に高さ一・三〇メートル、周囲六十センチの木があり、企業がこの土地を購入し木を切ろうとする場合、当局との協議が必要。切る場合、同様の木を別の場所に植えるか、一本につき八百ユーロ(約十一万
円)を払わなければならない。こうしたお金を元に別の土地で緑化を進める仕組み」と同市の緑化資金確保の手法を明かす。
クローズさんは現在、ベルリン中央駅から北に向かう壁の跡地二十二キロを「グリーンベルト」として整備する計画を進める。個人所有の壁の跡地を購入し緑地化。公園と公園をつなぎ、徒歩や自転車などで行き来で
きるようにする計画だ。
その上で東京のグリーン化に「都市部の緑化はお金もかかるし政治的な調整が必要。そして、なによりも緑に対し一般の人々が意思表明するサポートが重要」と提言する。
シュティマンさんもこう呼び掛ける。
「ベルリンの壁は冷戦の象徴でした。しかし私たちは今、跡地を人類の平和と環境保全の象徴にしようと考えている。東京も同じ復興の道をたどってきた。私たちがともに目指すべきは、お年寄りが自由に友人に会い、
緑に親しめる場づくり。超高齢化社会を迎え、緑化こそが都市の質を高める鍵だ」
<記者のつぶやき> ベルリンでは、地下鉄の駅から歩いて行ける湖で泳ぐことができる。にごっているが魚も多い。もちろん無料だ。長い年月をかけて生活の中に森を取り込めば遠出しなくても楽しめる。鳩山政権に
は高速道路無料化の前に都市のグリーン戦略をお願いしたい。