ID :
9611
公開日 :
2009年 1月27日
タイトル
[あの木片 宮大工棟梁・小川三夫さん
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新聞名
産経
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元URL.
http://sankei.jp.msn.com/culture/arts/090127/art0901270808000-n1.htm
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写真:
写真が掲載されていました
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身をもって知れ
紙よりも薄い1枚の木片は、窓ガラスに貼(は)ると、光が透けてきた。端から端まで、見事なまでに均質な厚みで削り出されていた。
「かんなくずとは、こういうもんや」
名棟梁(とうりょう)といわれた西岡常一(つねかず)が、たった一人の弟子だった小川のために、すうっとかんなを引き、手渡してくれた1枚だった。
弟子入りを許されたのは昭和44年、21歳のとき。奈良・法隆寺のそばにあった西岡の家に住み込んだが、師匠は「これはこうやって、ここはこう」というような教え方はしなかった。
ただ黙って刃物を研ぎ、誰もいないかのように一人で木を扱う。その姿を手本に、ひたすらマネをするというのが修業だった。
最初にてこずったのは、刃物の研ぎ方。仕事先の寺を自転車で往復する西岡に急ぎ足でついていくのが日課だったが、その合間にも、拾った棒切れなどで研ぐ手つきの練習をした。だが、どういう状態に仕上げるのが
いいかもよくわからず、なかなかうまくならない。
そんな小川に、西岡がくれたのが、一片のかんなくずだった。研ぎ方、刃の調整、かけ方…あらゆる技術が完璧(かんぺき)でないと、こうはならない。ついつい材木の仕上がりに目が向くが、削りくずにも技術の差は出る
。くずと呼ぶのが失礼なほど美しい木片は、さまざまなことを教えてくれるお手本になった。
入門志望のきっかけは高校の修学旅行。法隆寺を見上げ、1300年前に造られたという事実に感激した。「おれもこういうもんを造ってみたい」
卒業前、とりあえず奈良県庁で西岡楢光(ならみつ)という名を教えられ、法隆寺を訪ねた。「西岡さんはおられますか?」「西岡は3人おるがだれや?」「……」。名を失念していた。話しかけた相手が師匠だった。
「当時、お父さんの楢光さんは81か82歳。名を言えてたら人生が変わってたかもしれません」
その場で弟子入りを願い出たが、「養う余裕はない」と断られ、「飯は食えない」「女房ももらえんよ」と諭された。実際にそのころの西岡は、貧しい暮らしぶりだった。ナベのふたを削る内職をしていたという。
だがあきらめきれず、「仏壇は寺に似てる」と、東京の家具店や長野の仏壇屋に勤めた。3年後、島根や兵庫の神社で働いていたとき、法輪寺再建(さいこん)が始まった。やっと「お前ひとりなら来てもよろしい」と声がか
かった。西岡のもとで修業を積み、やがて自身も弟子を取る立場になる。20代後半で副棟梁をつとめ、30歳のとき、宮大工集団の鵤(いかるが)工舎を設立した。昭和の高度経済成長期には仕事が相次いだ。百人を超
える弟子が工舎に入り、巣立っていったが、「教えたことはないなあ」と振り返って笑う。
身をもって知れ、そして進め。それが西岡の教え方だった。「数少ない一言に重みがあって、自分の中で百倍にもふくれた」。代を譲ったいま、前舎主という立場で仕事をしているが、同じように伝えていきたい、と願っ
ている。
工舎の作業場に、布で大切にくるんだ西岡の道具一式が置いてある。使い込まれた飴(あめ)色のかんなも。
「いま見ても、身構えてますよね、かんな自体が。今すぐ現場に行ってもいいって感じがしますね。苦しいとき、電気道具に頼れるような、オレらの世代にはこういう根性の入った道具というのは、なかなかないですよ」
そばで、若い弟子たちが黙々と木に向かっていた。