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木造建築のネツト記事
ID :  8726
公開日 :  2008年 8月29日
タイトル
[垂れる枝葉の下は母の懐 山の端の古木カヤ
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新聞名
東京新聞
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元URL.
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tochigi/20080830/CK2008083002000163.html
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元urltop:
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写真:
 写真が掲載されていました
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山の端の村里、旧粟野町の集落はこの日もゆるやかにひっそりとあった。何の変哲もない山里だが、だからほのぼのと懐かしい。
 「何か落ち着くね」。同行の友とうなずきあったが、住んだこともないのに、子どものころ、祖父母や父母と暮らした場所にいる気持ちになるから不思議だ。
 どの道もそれは山へ向かっているのだが、小さな町並みから北へ一キロ。口粟野神社を目指して行くと、神社から数十メートル離れた畑の片隅に、確かに一本のカヤの大木はあった。
 樹高は二十五メートル。茫々(ぼうぼう)として枝は伸び、樹木というより緑の固まりなのだ。木には自ら樹形を整える本能のようなものが備わっていると思うのだが、この大木はそんなそぶりをまったく見せない。幹が、 枝が、どこから、どちらに向かって生えようが、伸びようが、気にも留めない。横にも広がっているので、枝張りは二十五メートルにもなる。
 根元より七メートルあたりに車軸状についた太さ七、八十センチの枝々はそろって弓なりに垂れ下がって地を這(は)う。さらにその上の太枝たちも地に向かっている。だから外からは垂れ下がった枝葉に遮られて主幹 は見えない。古書には「雄樹は枝立ちて花咲き、雌樹は枝垂れて実を結ぶ」とある。この大木は雌樹かしらん。そういえば、この木は隣村の美しい八重姫が八百比丘尼(おびくに)となって諸国を巡り、二十万本の樹木を 植えたうちの一本だという伝説が語り継がれている。
 地に臥伏(がふく)する枝をかき分けて樹(き)の下に入る。何という穏やかさだろう。大きな傘の中にいる安心感とでもいおうか。すべてを忘れさせてくれる母の懐なのかもしれない。
 懐の真ん中に、太さ五・七メートルもの主幹が根元から十メートルのあたりまで同じ太さでずっしりと、静かに立つ。灰褐色の樹皮が縦に大きく割れて、剥(は)がれている。それは千二百年以上、降りかかった数々の障害 を自らの力で乗り越えてきた自負の証しに見える。根元から十メートルほど上は大小の枝々を縦横に伸ばし、勢いのいい枝も、枯れている枝もあるがままに取り込んでいる。
 根元でじっと立ちつくしている。時が別次元で流れていく。
 老樹は江戸時代からすでに古木だった。一八二八(文政十一)年、地元民たちは古木に神が住むと、根元に稲荷(いなり)神社を祀(まつ)った。一八三九(天保十)年には京都・伏見稲荷神社から派遣された鑑定官が「樹 齢千年以上を経た名木」と折り紙をつけ、食用、油用となるカヤの実が二十俵も収穫されたことから「正一位稲荷大明神」の位が与えられた。
 時が経(た)ち、世の中から忘れられていた老樹は、一九五七(昭和三十二)年、栃木県の天然記念物に指定され、「栃木名木百選」にも選出された。
 それでも老樹が脚光を浴びたわけでもない。畑の所有者で、老樹の所有者でもある神山庄司さんは「天然記念物になっても木を手入れしたことはないね。ちょっと住まいから離れているのでしばらく見てないよ。特別な 感慨? いや別にないなあ」と淡々と話す。
 時が流れ、人が変われば、いにしえの人々が「神宿る」とあがめた老樹も、ただの老いぼれの樹にすぎなくなるのも成りゆきなのかもしれない。世の中からすっかり忘れ去られて、いつの日か枯れて倒れ、地に還(かえ) っていく…。
 江戸時代から老樹とともにある祠(ほこら)も朽ちて傾きかけている。頭を下げると、そこには供えたばかりの豆腐と油揚げがあった。老樹は今年もまた、いまでは煎(い)って食べてくれる人もないのに幾つもの青い実 をつけた。
 あきぐさのなにをさぶし  といはねどもかれゆくも  ののおのづからなる