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ID :  5542
公開日 :  2007年 12月 1日
タイトル
[あなたは「自然の一部」ですか
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新聞名
日本経済新聞
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元URL.
http://eco.nikkei.co.jp/column/article.aspx?id=20071129c1000c1
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元urltop:
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写真:
 
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先日、NECが協賛し、学生を対象にした環境教育の短期集中講座「NEC森の人づくり講座」(主催:社団法人日本環境教育フォーラム)に参加した。オークヴィレッジは毎年開催会場となっているので、学生た ちと交流する時間が持てた。私はショールームで木の家具に囲まれながら講義を行ったのだが、学生たちは熱心に私の話に耳を傾け、質疑応答も熱が入ったものであった。
  ■「自分も自然の一部」が大多数  質疑応答の際、私は学生に、 「あなたは自然の一部ですか?」 という質問を投げかけてみた。
 20人ほどの参加者のうち、「私は自然の一部ではない」と答えた学生は2人だけだった。講座に参加した学生は、一般の人よりも自然や環境に相当な興味を持っている。その学生の考え方がこうした現状であることで 、私は 「日本の環境教育は、欧米化していない」 ということを再確認した。
これから本格的に環境について学ぶ学生と話し合う筆者  つまり、日本人にとって「自然」という言葉の基本的定義が、欧・米のそれとは違っているということだ。日本人の多くが(環境に関心の高い学生でも)、自然を英語の「Nature(ネイチャー)」ではなく、日本古来の「自然(じ ねん)」として捉えているのだ。
 「自然(じねん)」とは「自分自身(人間)を含んだ天然」という意味で、英語の「Nature」における「自分自身(人間)を含まない自然(しぜん)」とは、根本的に定義が違う。この定義の違いを無視して、日本では「自然保護」 を始めとした「環境教育」をしてきたことに、大きな欠陥がある。
  ■参加者の圧倒的に少ない日本の環境保護活動 この冬の訪れは早く、飛騨は11月下旬に積雪した。まだ紅葉もしていない都会から来た学生は、そのギャップに大変驚いていた  今回の「森の人づくり講座」では、NPO法人「ドングリの会」が11年前に植えた広葉樹の森を手入れした。学生たちは早くも雪が舞う飛騨高山の森で、寒いながらも頑張って作業をしてくれた。森林によるCO2の吸収を促 す森林の手入れ(徐間伐)は日本の森林政策においては非常に大切な作業で、あれやこれやの理屈を並べるよりも、少しでも山の手入れをする方が地球環境に具体的に貢献する。
 特に日本では、木を植えることももちろん大切だが、もはや植える場所が少なくなっており、スギやヒノキが植えられた「人工林」や、一度伐採され、放置されて生まれた「二次林」の徐間伐等の手入れの方がより重要な のだ。そして、それには若い力が求められている。
 そんな背景もあり、日本環境教育フォーラムは「森の人づくり講座」を始めた。この講座では森を手入れするだけでなく、森林問題を始めとする環境分野のリーダーを創出する意図もある。フォーラム理事を務める私も 講義に参加しているのだが、講義でいつも話をせざるを得ないのが「Nature(ネイチャー)」と「自然(じねん)」の混同に、日本の環境教育の「絶望」と「希望」が混在しているということだ。
 ご存知かも知れないが、日本自然保護協会には約2万5000人、日本野鳥の会には約4万5000人の会員がいる。しかし世界各国にある自然関係の非営利団体に比べると、この数は圧倒的に少ない。
温暖化対策関連法案への署名キャンペーンのためロンドンのテムズ川のほとりに設けられたWWFのオブジェ。WWFは世界に500万人の会員を抱える=11月[AP Photo]  例えば、米国の自然保護団体の元祖であるシェラクラブでは会員が130万人くらいいるし、野鳥保護を主目的とするオーデュボン・ソサエティーもそれに匹敵する会員が所属する。さらに全米野生生物連盟(NWF、会員 数450万人)や世界自然保護基金(WWF、会員数500万人)に至ってはその数倍の規模になる。
 欧米には日本を代表する団体の、優に数十倍にもなる会員が所属する団体が目白押しなのだ。人口の違いを考慮しても、その差は歴然としている。
 なぜ、こんなことになっているのか。私は、日本人が本来抱いている「自然(じねん)観」は大切で、それこそが環境教育に生きてくると思うのだが、これから挙げるいくつかの要因により、その大切な観念が置き去りにさ れたことが原因の1つになっていると思っている。
 その要因の第一が、 「“賞味期限が切れた”日本の教育内容の問題」 である。
  ■置き去りにされた日本の自然観  日本は明治維新以降、ヨーロッパ諸国に追いつくために富国強兵政策をとり、戦後復興を遂げるため経済優先の合理化に力を注いだ。
 しかしそういった日本の教育カリキュラムは1960年代末から1970年代始めの学生運動が終焉する頃が賞味期限であったのではないかと考えている。
 ところがその頃から受験勉強に代表される教育内容はほとんど変わっていない。環境教育という側面において極めて重要な視点、つまり、「近代合理主義に基づいた産業革命が今日の環境問題の元凶」であり、近代合 理主義の根本的な見直しが極めて重要だという視点がほとんどない。「Nature」としての自然を合理的に制御するための教育ばかりで、「自分も自然の一部なのだから自然との両立なしには生きられない」という日本の 自然観を置き去りにしてしまったのだ。
 このことが日本の環境教育が進まない一因であるが、先の学生とのやりとりに見られるように、日本の自然(じねん)観そのものはまだ強く息づいており、これが将来の「希望」につながると考えている。次回は環境教育 を取り巻くほかの要因を述べたうえで、新しい展望について探ってみたい。(