1. HOME
  2. 木の情報発信基地Top
  3. 8.樹木
  4. 樹木・植樹・木のニュースアーカイブ TOP
ID 6916
登録日 2008年 3月28日
タイトル
土地利用権集団化と文化の破壊(3) 雲南の民族と森林
.
新聞名
JanJan
.
元URL.
http://www.news.janjan.jp/culture/0803/0803270679/1.php
.
元urltop:
.
写真:
 
.
土地利用の集団化によって村同士の土地争いが頻発するようになった。なかでも我々が調査した地域のうち、モンハイ県の曼来村(ダイ族)と、同じ名前を持つ曼来村(ハニ族)との間に起きた紛争は、ダイ族の 村にとっては生存自体を脅かす大きな問題となった。その経緯などを紹介する。
前回記事:(16)土地利用権集団化と文化の破壊(2) 頻発した土地争い  土地利用の集団化の結果、村同士の土地争いが頻発した。土地の境界争いは、村レベルを超える規模の土地利用の集団化によって引き起こされ、全国的に頻発した。我々の調査地も例外ではない。ちなみに西双版納 州のモン海(モンハイ、モンは孟に力)・モンラ(モンは孟に力、ラは「にくづき」に昔)・景洪の3県だけでも、1960年代から80年代初めにかけて森林に関する権利をめぐる紛争・衝突発生件数は900件を越えた。
 我々の調査地のなかでは、モンハイ県の曼来村(ダイ族)と、同じ名前を持つ曼来村(ハニ族)との間に起きた紛争が一つの例である。それは単なる土地争いではなく、ダイ族の村にとっては生存自体を脅かす大きな問題 になった。ダイ族の村は千年以上の歴史を持っており、山地と盆地底部の平地との境に位置している。中国ではダイ族を大きく“水ダイ”と“旱ダイ”に分けている。前者は盆地底部における水田での稲作を主たる生業 としており、西双版納からラオス・タイの多数民族を形成している一派である。後者は山地に住み、伝統的には焼畑を主たる生業としていた。このグループもラオスやダイの山地に広がって点々と集落を営んでいる。こ の曼来ダイ族村は前者に属している。
 彼らは森林を直接生産活動に切り開くことは少なく、むしろ水田経営に必須の水の供給源として利用を控えている。この村の背後に広がる山地が彼らの水源であるが、かつて虎などの猛獣の出没に悩んでいた。そこで 森林を少し切り開き野獣の出没を抑えようと、今から約百年前に森の中での生活に慣れているハニ族の数家族にそれを依頼した。その後ハニ族の人口が増えて一つの村を作ることになり、今の曼来ハニ族村が成立した 。両者の関係は、ハニ族のほうからすればダイ族は彼らの「父親」とも頼む存在で、良好な状態にあったし、現在も良好な状態に回復している。一つ例を挙げれば、ダイ族村とハニ族村の境界域に広がる森を源として流 れ出る川によって生活する周辺6ヶ村が、毎年水源林に集まり共同で祭礼を行なっている。その内5ヶ村はダイ族であるが、そこに曼来ハニ族村も参加しているのである。
 その両村間で森をめぐる争いが発生したのが、1970年前後のことであった。原因はハニ族がそれまでの村の境界を越えてダイ族村のほうに侵入し、そこの森林を切り開いたことである。そのためそこを水源としてい た下流のダイ族村では川の水量の減少などが生じ、深刻な紛争に発展したのである。しかしこれは、単にハニ族側の逸脱行為というわけではない。
 1958年に政府の開発プロジェクトチームがハニ族の曼来村に政府の政策を宣伝にやってきた。彼らは村のしばらく駐留し、村人に生産活動の拡大を奨励しそれを援助した。その政策の下、食糧生産の大規模な拡大 が図られ、村人は空前の森林破壊を実行してしまったのである。ある村民の回顧によれば、その時の森林伐採が水源林にまで及んでも、政府はさらに伐採を奨励した。2、3年にわたって大伐採をしたために立派な樹木 のあった森林は伐りつくされ、60年代初めには墓地林や水源林を除いて村内の森林はすべて禿山になったそうである。
 60年代から70年代末にかけては、当村も人民公社に編入されていた。その間に50年代以前に確立していた森林利用慣行が破壊された。当村の森林は50年代末にはすでにかなり伐採が進んでいたので、人民公社 の下での食糧増産指令に応ずるために70年前後になると、村民は他村領域内に侵入し森林を切り開き食糧作物を栽培せざるを得なくなったのである。
 70年代末にいたってようやく村境界が再び明確にされて紛争は収まったが、この過程で彼らは周辺村落の水源林すら激しく伐採したのである。
 ダイ族村とハニ族村は所属する人民公社が別であったけれども、村ごとの境界を超越して国あるいは人民公社が土地を所有し、人民公社単位で土地利用をおこなったため、当の住民たちにとってもそれまでの自分達 の土地であるとの当事者意識や自己責任意識が薄れ、はっきり境界が意識されなくなったことがこの紛争の背景にあると見てよい。そして実際に越境行為を行なわせたのは、上からの食糧増産指令という圧力であったこ とはいうまでもない。
 また別の例は、モンワン大寨とラドン村の間に起きた土地争いである。これは今現在も解決していない。この問題もやはり人民公社化によって村毎の境界が無意味にされたことによって生じたものである。両村は同じ 人民公社に属し、人民公社化以前はラドン村であった山の一部に公社化後モンワン大寨の村人が茶と松の木を植えたのである。後に述べるように、1980年代初めから生産請負制という商品経済促進政策が実施される が、その過程でこの茶畑や松樹の植わっている土地の利用権が問題化し現在に至っている。
民族文化へ加えられた総体的圧迫  ところで、共産党は土地慣習をはじめ“旧弊”を破壊することが革命政権の存在意義であるとし、それを教条的に強行した。伝統的社会の内実は詳しく吟味されることなく、一律に克服されるべき「遅れた社会」とみなさ れ破壊された。例えば、1950年代に政府は少数民族ごとに「記録」映画を撮影して回ったが、そのなかのあるヤオ族の村の「記録」映画を見たことがある。それは、些細な不平等をことさら拡大解釈し、単純な発展史観 を適用してあたかも既に封建的階級社会が成立しているかのように描かれている。そのうえで、共産党が階級社会のくびきから人民を解放するという規定の筋書きに則って、自己の存在価値を宣伝する内容であった。
 こうした社会主義のテーゼから演繹された社会分析によって、多様な生活様式の少数民族社会は単純化され、彼ら自身の思想や慣習、その総体としての文化は破壊された。その中で、彼らが自らの管理責任の下で長年 利用しつつ保持してきた森林も破壊されるに至った。その過程で国家が近代化という名の下において実施したさまざまな慣習つぶしの施策もまた、彼らを追い込むことに力を発揮したのである。
..

このページの公開日は1999年11月12日。最新更新日はです。

中川木材産業のビジネスPRその11   「diyで作るキットデッキ コンセの実例」商品ページはコチラです。 画像クリックでそれぞれ体験談に。(公開2018.8.1 更新2019年11月12日 )
kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce kitDeck-conce