ID 6889
登録日 2008年 3月27日
タイトル
写真大/新宿御苑の桜 新都心の西洋式庭園に咲く不思議な桜の佇まい
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新聞名
JanJan
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元URL.
http://www.news.janjan.jp/area/0803/0803263625/1.php
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元urltop:
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写真:
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3月25日に桜を楽しみに新宿御苑を訪れた。ここはかつて大名内藤家の江戸屋敷のあったところだ。木戸銭があり入場時間帯にも決まりがあるためか、同じように桜の名所である上野の森とは趣が異なって
いる。コスモポリタンな空気のなか、ゆっくりと花見を楽しむことができた。
目次
1ページ
・かつては大名内藤家・江戸屋敷だった新宿御苑
2ページ
・上野の森との雰囲気の差
・コスモポリタンな空気のなか平穏なひととき
25日。新宿御苑の桜を見に向かう。この附近は、かつて徳川家の譜代大名内藤家(信州高遠藩)の江戸屋敷のあったところで、内藤新宿と呼ばれていた。新宿駅の南口を出て、スロープを下り、新宿高校(実はこの名門
校も内藤家敷地だった)の前を通り、新宿門から200円の木戸銭を払い御苑に入った。
熟年ご夫妻(?!)はじっと桜を見上げていた(08年3月25日 佐藤撮影)
かつては大名内藤家・江戸屋敷だった新宿御苑
今はすっかり、東京の桜の名所となった新宿御苑だが、桜の園としての歴史は、さほど古いものではない。桜の木も意外なほど疎らで、古木と言えるほどの樹木はない。
この新宿御苑は、明治維新後、内藤家より、譲られた土地と既に私有地かしていた広大な敷地58万m2を合わせて、「内藤新宿試験場」として、国内の農業振興のための一大拠点として用いられてきたものだ。
ヨウコウ(陽光)という種の桜と鳥
その後、この試験場で育成された菊三鉢が、明治33年(1906)のパリ万国博に出品され好評を博し、その時に知遇を得たベルサイユ園芸学校教授のアンリ・マルチィネに西洋式の庭園設計を依頼して、開苑の運びと
なったものである。折から、明治39年(1906の5月の開苑式は、日露戦争の戦勝祝賀の儀として催されることとなり、その後この庭園は皇居と隣接した立地もあって、皇室との関係を深めて行く。太平洋戦争では、アメリ
カ軍の空襲により、ほとんどの建物は焼失したが、戦後は、昭和24年5月(1949)に「国民公園新宿御苑」として新たなスタートを切ったものである。
今では、首都東京を代表する庭園のひとつとなっている。
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