ID 4121
登録日 2007年 6月18日
タイトル
カエデの翼果、サツキ・・・金福寺/京都市左京区
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新聞名
読売新聞
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元URL.
http://osaka.yomiuri.co.jp/flower/fl70617t.htm
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元urltop:
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写真:
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かつて京の街はずれだった洛北・一乗寺の東山山麓にたたずむ金福寺(こんぷくじ)。蕪村が再興した芭蕉庵が丘の上に残る俳諧の寺の境内では、サツキの花が終盤を迎え、翼のような形をしたカエデの果
実・翼果(よくか)が雨に濡れた青葉の中で薄紅色に輝いていた。
近畿が梅雨入りした日の翌朝、宮本武蔵と吉岡一門の決闘で名高い一乗寺下り松を南に折れて山すそに入る道をたどった。小さそうに見える寺の石段を上がると、石畳の参道わきのヤマモミジの青葉が、朝までの雨に
うたれて鮮やかさを増していた。
葉の間のところどころに薄紅色の実のようなものが点在している。近づいて見ると、ヘリコプターの羽根のようなユニークな形をしていておもしろい。翼果とはよく名づけたものと感心するが、「これが風に乗って地面に
落ち、種から新しいカエデが育っていくのです」と住職の小関素恒さん(73)が説明してくれた。この金福寺はあまたの京都の寺の中でも隠れた紅葉の名所だが、紅葉を代表するカエデの魅力は晩秋だけには限らない。
春から夏にかけ新緑に燃え、花が咲き、実がなる時季も見逃せない。
「芭蕉庵」と書かれた庭門をくぐると枯山水の庭となり、手前にサツキの刈り込みが広がっている。洛北の山あいにあるおかげか、盛りは過ぎても、緑の中の明るい色合いの花を楽しめる。このサツキの重なりの背後に
小さな丘が続いており、その起伏をつくる木々の緑の中に茅葺き屋根の庵が浮かぶように見える。というより、庵が木々の中にすっぽり溶け込んだようにも映る。
丘の小道をゆっくりと上がっていくと、その芭蕉庵に着く。芭蕉が京の周辺を吟行していたころ、当時の住職の鉄舟和尚が結んでいた草庵をしばしば訪れていたことから、芭蕉の没後も村人が「芭蕉庵」の名で呼び伝えて
いたという。その後70年ほどして蕪村が金福寺を訪れた時には庵が荒れ果てており、これを建て直した経緯が寺に残された蕪村の俳文「洛東芭蕉庵再興記」に記されている。
蕪村はこの庵を建て直したというだけでなく「静寂でありながら全く人里を離れた場所でもない」この地を気に入ったらしく、庵の中にはこの寺で蕪村が詠んだ句として「三度啼きて聞えずなりぬ鹿の声」など6句が掲げら
れている。その中には「我も死して碑にほとりせむ枯れ尾花」の句があり、この意思のとおり蕪村の墓が丘の一番上に建てられている。
芭蕉庵から蕪村の墓へと上がる周辺には、樹齢300年を超すといわれるヤマモモの大木が枝を広げる。本来なら赤い果実が楽しめる時期だが、今年は成り年でないとのことで残念だ。東山の樹種を代表するシイの大
木が何本もある。そのほか、ネジキ、アセビ、シャシャンボなどと自生する木の種類は実に豊富で、タカノツメなど黄葉する木もあり、秋の彩りも豊かだろう。丘からは京の街並みが見渡せる一方、丘は東山の山域にその
まま続いている。小さいように見えて上がっていくと大きさを感じさせる寺だ。自然と人生をともに広々と描いた蕪村にとって、この寺は最も安らかに眠れる場所だったに違いない。
丘を下りて庭に戻り、本堂に展示された寺に伝わる品々を拝見した。蕪村の使った文台や硯箱、蕪村筆の「芭蕉翁像」などの一方、注目されるのは開国の大老井伊直弼を支えた村山たか女(じょ)の遺品だ。隠密として
京都での反幕勢力の情報を上げていたたか女は、「桜田門外の変」のあと長州藩士らに捕らえられるが、その後、尼僧となって金福寺に入り明治9年まで生きた。そのたか女の書いた弁天堂の棟札や、彼女が祀った弁財
天像が展示され、直弼の詠み与えた和歌も残されている。この地では、たか女は「近江から来た者」と言うだけでひっそり暮らしていたというが、井伊大老を支えた女としての誇りは生涯持ち続けていたのだろう。
井伊直弼や村山たか女は、昭和38年NHKで放送された舟橋聖一の「花の生涯」で名誉回復される形となり、金福寺でも、たか女の参り墓が建てられた。小関住職は「たか女は出生の時から寺との縁が深く、当時は治外
法権だった寺に入ったことで平穏な晩年を送れたのでしょう」と説明する。京の中心からは離れ、近江に近い地にあってしっかりした基盤のある臨済宗南禅寺派の寺は、たか女にとっても身を寄せやすかったのだろう。
詩仙堂、圓光寺、曼殊院など名刹が続く一乗寺周辺も戦後宅地化が進んできたが、ところどころに田園や古い家並みも残る。小関さんは「俳句の寺として、できるだけ自然のあるがままに木々や草花を育て、落ち着いた
雰囲気を保っていきたい」と話していた..