ID 3561
登録日 2007年 4月18日
タイトル
文字のない年表 木片が時空超え 歴史の定説覆す
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新聞名
読売新聞
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元URL.
http://osaka.yomiuri.co.jp/shitei/te70417a.htm
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元urltop:
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写真:
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内裏、大極殿などの遺構や、数万点にのぼる木簡などの遺物が次々に出土し、あと100年かけても発掘調査は終わらない、と言われる特別史跡「平城宮跡」(奈良市)。その一角の奈良文化財研究所で、年 代学研究室長を務める光谷拓実(59)は、日々、顕微鏡を黙々と覗(のぞ)く。
古い社寺の柱や梁(はり)、発掘された木などの年輪から、その木材を使って文化財がつくられた年代などを探る「年輪年代学」を国内ではただ一人で切り開いてきた研究者だ。
日照時間や降水量など、気象条件によって、年輪の幅は毎年、違う。光谷は各地から寄せられた木材の年輪幅を一つひとつ0・01ミリまで読み取り、その何百年、何千年もの変動を折れ線グラフにした「標準パターン」
を作成。文化財の木材の年輪をそれと照合し、それぞれの木がいつ最後の年輪を刻んだかを割り出す。
そうして、考古学や歴史学の定説を何度も覆してきた。
弥生時代の環濠(かんごう)集落の大阪・池上曽根遺跡で出た柱材の伐採年を紀元前52年と特定し、従来の弥生中期の年代設定を約100年、遡(さかのぼ)らせた。最古級の古墳の奈良・勝山古墳から出た板材を3世
紀初頭のものと測定し、3世紀末か4世紀初頭とされた古墳時代の始まりが、邪馬台国時代と重なることを明らかにした。
実はこうした測定そのものが、常識を変えるものでもあった。
「年輪年代測定をやらないか」。光谷は1979年、同研究所の所長の坪井清足(85)と後の所長の田中琢(74)、国立歴史民俗博物館長を務めた佐原眞(1932~2002)の上司3人から勧められた。
大学院で園芸学を学んだ後、研究所に入って約5年たち、発掘される木の樹種鑑定などを行っていた頃(ころ)。ライフワークを模索していた時期でもあり、挑むことにした。
年輪年代学は降水量と樹木の成長の関係を研究していた米国の天文学者のA・E・ダグラス(1867~1962)が約80年前に確立。欧米では約1万年前までの標準パターンもある。だが、南北に長い上に地形が複雑で
気候の地域差が大きい日本では「年輪変動のパターンづくりは無理」というのが常識だった。
佐原は79年、坪井とともにドイツで、ハンブルク大教授のディーター・エックシュタイン(68)から年輪年代学について聞き、日本でも試みようと決意。田中とも相談して、植物が専門の光谷に白羽の矢を立てた。
難しいのは覚悟の上。83年の日本文化財科学会の会報では「委ねるにあたって、ためらいがなかったわけではない。(失敗すれば)ひとりの若き研究者をつぶしてしまう」と、苦しい胸の内を明かしている。
光谷はまず平城宮跡などで出た木を次々に調べた。83年には、ヒノキなどについて古代の約600年分のパターンが完成。来日したエックシュタインも「これなら大丈夫」と太鼓判を押した。
北海道から鹿児島・屋久島まで、各地の営林署や製材所を回って集めた輪切り材、古い建物の修理の際に採取したサンプル、測定してほしいと持ち込まれた木など、光谷はこれまでに9000点以上を計測した。年輪幅
はどの地域でも同様に変動。常識の誤りを確かめた。その一方、約3000年分に及ぶヒノキやスギの標準パターンをつくり上げた。
何千点かをこなせば、日本の年輪年代学は国際的な水準になるだろうと、佐原は日本文化財科学会の会報で結んだ。この分野が光谷の手で、日本でも揺るぎないものになると、見越していたようでもある。
法隆寺五重塔の心柱のエックス線写真。「白太」とも呼ばれる、外側の辺材部分が伐採年特定の決め手となる(2001年2月20日、奈良文化財研究所発表) 一人で研究を続けてきた光谷にも後継者ができた。大河内隆
之(38)。2003年、研究所に入った。
「材そのものが(いつ建てられたかという)事実を語る。本当だろうか」。大学で建築史を学んだ大河内は、たまたま読んだ神社の修理報告書で光谷の年輪年代測定を知った。
すぐ貯木場からヒノキの原木20本の一部を切り分けてもらって計測、150年分のパターンを自作した。それが光谷の標準パターンと一致したことで、のめり込んだ。
初めて光谷を訪ね、教えを請うたのは00年ごろ。当初は無愛想だった光谷だが、大河内は「僕が自分の手で計測したデータの話をしたら対応が変わった」と言い、それから研究所に度々、足を運ぶようになった。
「彼は弟子なんかじゃない。研究者として入所した」と、当初から、一人前の専門家として扱われ、入所後すぐ宇治上神社(京都府)本殿の測定を任された。デジタルカメラで長押(なげし)などを撮り、解析。現存最古の
神社建築だとする定説を裏付けた。04年から05年にかけては米アリゾナ大へ派遣され、ダグラスが創設した年輪研究所で修業を積んだ。
今は大学院で学んだ画像工学などを生かし、仏像、工芸品など表面に漆や顔料が塗られて木目が見えないものも、エックス線CT(コンピューター断層撮影法)によって解体せず計測する方法などを研究。「今後は美術
史など、幅広い分野の研究者と連携したい」と夢を膨らませる。
ヒノキの年輪幅の変動を示す暦年標準パターン(実線)と、法隆寺五重塔の心柱の年輪パターン(点線)。光谷さんが照合した結果、この心柱は594年に伐採されたものと測定した(奈良文化財研究所の研究誌「埋蔵文化
財ニュース」116号から) 大河内は入所後にも、光谷とは別の試料で、ヒノキの暦年パターンをつくってみた。でき上がったのは、やはり光谷と同じパターンだった。
「研究者は国内で1人しかいないので、測定結果が正しいかどうか、確かめられない」。光谷が“常識”を覆しても、その成果を認めないとする声はくすぶっていた。だが2人目の研究者が出てきたことで、そんな声も消
えつつある。
たった一つの木片が時空を超えて知られなかった事実を明かし、時に歴史を塗り替える。年輪は「自然がつくった正確な時計」であり「文字のない年表」でもあるのだという。
「年輪年代には、惚(ほ)れ込むだけのものがある」と、大河内は言う。
「日本は、木の文化の国。それが年輪年代学で後れを取るわけには、いかない。だから歯を食い縛って、やってきた」。ほのかに木の香りが漂う研究室で、光谷はそう、先駆者の心意気をにじませた..