ID 3333
登録日 2007年 3月31日
タイトル
「みんなの桜」粋な開放 造幣局
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新聞名
朝日新聞
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元URL.
http://www.asahi.com/kansai/sumai/fuukei2/OSK200703310008.html
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元urltop:
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写真:
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大阪城の北を、大川(旧淀川)が緩いS字形のカーブを描くように流れる。このあたりは「桜之宮」という地名が示す通り、桜の名所だ。河川敷に沿って延びる公園には、ソメイヨシノを中心に約4700本が植えら
れている。
桜が咲き始めた造幣局構内。春の日差しの中、公開されている造幣博物館への通路で、ひと足早い「通り抜け」気分を楽しむ家族連れの姿が見られた=30日午後、大阪市北区で
ユリカモメが舞う中、桜並木が続く大川を遊覧船がゆっくりと進んでいた=大阪市北区で
造幣博物館
「桜クルーズ」のランチ
満開の桜が大川の水面に映るころ、その西側にあるもう一つの桜並木の花が追うように開く。造幣局(大阪市北区天満1丁目)の「桜の通り抜け」だ。
毎年4月中頃の1週間、一般に開放され、90万人前後が訪れる。開花が早まった今年は4月5日から11日までと、これまでで最も早い開催となる。
春の訪れを感じさせる穏やかな日に、一足早く造幣局を訪れてみた。正門を入って左側の植え込みに石碑が立つ。はめ込まれたプレートに、通り抜けの由来が書いてあった。
1883年、当時の造幣局長・遠藤謹助が「局員だけの花見ではもったいない。市民の皆さんと共に楽しもうではないか」と発案したことから、満開時の数日間、構内の桜並木の一般公開が始まったとある。
官尊民卑の雰囲気が強かった明治時代に、粋なはからいである。この遠藤謹助とは、どんな人物だったのだろうか。彼の足跡と共に、桜の通り抜けの歴史をたどってみた。
■進取の志 通り抜け生む
造幣局構内、南北に延びる560メートルの桜並木を歩くと、すでに花びらが開いている木もあれば、つぼみのものもある。ここが「通り抜け」と呼ばれるのは、公開当初から並木道を一方通行にして市民に楽しんでもらっ
たことによる。
◇
通り抜けが始まったのは1883年。遠藤謹助が造幣局長に就任して2年目のことだ。明治憲法も制定される前、近代的な議会制度もなかったころに、遠藤はなぜ桜並木を市民に開放するアイデアを思いついたのだろう
か。
「はっきりとした理由は分かりませんが、若いころ英国留学したことが影響しているのは間違いない。民主的な制度やロンドンの市民生活に触れたことが開明的な考えにつながったと思う」。幕末維新の研究家・一坂太郎
さん(40)は指摘する。
幕末の1863年、長州藩は秘密裏に5人を留学生として英国に密航させた。後に英国の新聞で「長州ファイブ」と呼ばれる伊藤博文、井上馨、井上勝、山尾庸三、そして遠藤である。
彼らはロンドン大学などで先進技術を学んだ後に、それぞれ帰国。伊藤は初代総理大臣、井上馨は外務、大蔵大臣に。井上勝は鉄道庁長官などを歴任して日本の鉄道網を整備し、山尾は工部大学校(現・東京大学工
学部)を設立するなど日本の近代化に尽くした。
遠藤は英国で学んだ鋳造技術を買われて、明治政府が進めていた造幣局建設にかかわった。造幣局長になってからは、外国人に頼っていた貨幣鋳造を日本人の手で行えるよう人材を育成し、態勢を整えた。その初の
成果が1889年につくられた5銭白銅貨である。
「この硬貨の鋳造は造幣局の歴史に残る仕事です。でも、一般の人には、桜の通り抜けを市民に公開した人として記憶されるかもしれませんね」と一坂さんは話す。
◇
遠藤が造幣局を去った後も、桜の通り抜けは続けられ、当初は2万~10万人だった花見客も、1917年には70万人まで増えた。だが、桜にとっては、このころから受難の時期になる。大阪では工業化が進んだため、工
場のばい煙で枯れる木が出た。さらに、太平洋戦争末期、45年6月の大阪空襲では約500本中300本が焼失してしまった。
43年から戦争のため中止されていた通り抜けは、47年に再開。順次植樹も進み、土を入れ替えるなど並木を守る努力が続けられている。桜の種類も増え、今年は124種類370本が間もなく咲きそろう。
「桜にとっては、ちょっと窮屈かもしれませんけど、色々な種類があるのが通り抜けの特徴ですから」と、造幣局から桜の相談役を任されている妻鹿加年雄(めが・かねお)さん(79)。「通り抜けにはピンクの花だけでな
く、黄色い花をつける種類もある。色や形の違いを楽しんでほしい」と付け加えた。
124年を迎えた桜の通り抜けが、5日後に始まる。
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