ID 3151
登録日 2007年 3月17日
タイトル
平泉柳の御所跡のしだれ桜(1)世界遺産登録間近の平泉で起こっていること
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新聞名
JanJan
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元URL.
http://www.janjan.jp/area/0703/0703161782/1.php
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元urltop:
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写真:
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ここに、あまりにも違う2枚の写真がある。まず1枚目は、私が3年前(04年)の春、桜の開花を聞き、柳の御所跡に行って撮したものだ。その日は、風もなく実に長閑な1日だった。遠くに見える高館山の右脇に
雲のように見えるのは焼石連山の雪を抱いた姿で、しだれ桜の枝に留まった小鳥たちは、我が世の世の春を寿ぐように美しい声で囀っていた。
周知のように、柳の御所跡は、黄金の都と呼ばれ繁栄を極めた奥州藤原氏の政庁「平泉館」と思われている地である。ここにおいて初代清衡から二代基衡、三代秀衡、そして源頼朝の度重なる圧力に屈して頼りとすべ
き源義経を襲撃して自害に追い込んだ四代泰衡まで、政務を執ったと言われるところだ。もう1枚は、今年(07年)の3月10日、盛岡市在住の鈴木紀子さんによって撮影されたものである。この激変がどうして起こったの
か。今回のレポートは、ここからはじめたい。
1.平泉 花はどこへ行った
もうすぐ、日本中が桜の開花に湧く季節になる。ところが今年の奥州は、春の嵐が吹き荒れ、時ならぬ風雪がかつて黄金の都と言われた平泉の原野を吹き荒れている。
そんな奥州から悲しい写真が、私の許に送られてきた。見れば、そこは柳の御所と呼ばれる平泉(岩手県平泉町)の政庁があった地帯が写っている。でも何かが違う。悲しい悲しい景色に暗澹たる気持ちにさせられた。
数十年前まで、この周囲は、それはそれは美しいところだった。長閑な田園が拡がり、農家がイグネと呼ばれる屋敷林に囲まれて点在していた。家の前には、大河北上川が流れ、春になれば雪解け水が南に向かって滔
々と下っていくのが見られた。
そしてこの写真に写る樹齢100年ほどにもなるしだれ桜は、美しい花をつけて野鳥たちを招き寄せ、鳥たちはこの樹木の周辺を憩いの聖域(サンクチュアリ)として、恋の歌を謡い、自らの子らを養い育てていた。この
平泉の地に住む民は、我が家屋田畑が、滅び去った黄金の都の上にあるのを、誇りとして、父祖代々の土地を営々と守り伝えてきた。
しかしある時(1981)、平泉に「平泉バイパス」という公共事業計画が持ち上がった。国道四号線が平泉中尊寺の参道付近で渋滞を起こすというのが計画の根拠であった。同時に、北上川が度々洪水を起こすので、堤
防を兼ねたバイパスを建設することで、「一石二鳥の効果がある」と、国土交通省(当時・建設省)は胸を張った。
計画は、この柳の御所を貫き、彼方に見える高館山を掠(かす)めて北に向かい四号線に合流させるというものだった。びっくりしたのは、地元住民だった。「そんな大規模なものが本当に必要なのか」という極めて健全で
素朴な意見だった。
また中尊寺、毛越寺の僧侶や、平泉の歴史文化を研する研究者たちは、平泉の中心を貫くようになる工事計画にはじめから難色を示した。早速、この計画の問題点を指摘する署名活動が起こり、中尊寺境内などで始め
られた署名活動では、あっという間に20万人を越える工事見直しの署名が集まり、文化庁や岩手県に提出されたのであった(1990)。
歴史都市である平泉は、考古学者の間では、どの場所を発掘しても、何かが出土する地域と言われるような場所である。工事前の調査発掘が始まると、この柳の御所跡からは、大量の土器(かわらけ)や柱の跡などが
次々と確認され、この地域が、平泉の政庁「平泉館」ではないかと言われるようになった。
平泉館は、吾妻鏡で頼朝がこの地を訪れた時、中尊寺や毛越寺の僧侶たちに、平泉の財産目録とも言うべき「寺塔已下注文」(じとういかちゅうもん:「吾妻鏡」文治五年九月十七日の条)というものを提出させたのである
が、そこに見える奥州藤原氏初代藤原清衡以来最後の四代泰衡が政務をとった政庁である。
要するに、この写真に写っている原野が黄金の都市平泉の国会にあたる場所だったことがほぼ確認されたのである。遠くに見えるのは、あの悲劇の天才武将源義経が住んでいたと言われる伝説の高館山である。この
高館山からの眺望は、平泉の中でも第一の景勝地と言われてきた。しかし平泉バイパスの工事開始により、美しい眺望はあっさりと姿を消した。
この地に憧れ、奥州にやって来た文人墨客(ぶんじんぼっかく)は、それこそ星の数ほどいる。中でも真っ先に浮かぶのは、田園となっていた柳の御所を足早に素通りし、高館山に登り、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠嘆
した俳聖松尾芭蕉のことだ。
現在、平泉は、昨年の暮れ外務省が、ユネスコ世界遺産委員会に、国の推薦書を渡し、世界遺産登録に向けての最終局面に差し掛かっている。そして今秋(2007)にも、世界遺産になるための最終調査のために、イコ
モス委員会(国際記念物・遺産会議)の専門家か調査にやってくることになっているのである。
しかし私は、この平泉バイパスの工事現場を、この7年間見続けて来て、「本当にこれで世界遺産になれるの?」と思ってきた。素朴に考えてみれば分かるはずだ。世界遺産条約の精神は、危機的状況にある人類普遍
の文化遺産を保護するためにあるものだ。ところが現在の平泉は、明らかに過剰な公共工事によって、環境破壊と文化財そのものの価値は著しく低下した状況にある。
それに柳の御所跡は、「世界遺産・平泉」のコア・ゾーンのひとつなのだ。このまま、順調に行けば、来年(2008)の世界遺産委員会で、平泉は、待望の世界遺産として登録されることになる予定だ。ところが、肝心の現
場をみれば、1年前にもかかわらず、桜の木1本生存できぬような劣悪な環境に晒されているのである。
もう一度、この写真に写るこの殺風景な風景が出来てきた経緯を時系列に整理してみる。
・1981年 柳の御所の上を平泉バイパスが通る計画が出される。
・1988年 バイパス工事の前提となる埋蔵文化財の発掘調査が始まる。その調査で、この場所が「平泉館」ということが明らかとなり、国土交通省はバイパス計画変更を余儀なくされる。
・1995年 国土交通省は、計画を練り直し、バイパスを柳の御所跡から東にズラして北上川の川道の上に変更をする。北上川は100mほど東側に移動させられ、この桜の辺りに構えていた旧家も引越をし、家宝だった一本のし
だれ桜だけが、この地に残ったのであった。
・2000年秋
工事が始まるや否や、平泉はユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されたのである。いつしか「柳の御所跡の一本桜」と呼ばれるようになったこの写真の桜は、この間に柳の御所周辺で起こったことをすべて見てきた生
き証人である。しかしながら今やこの桜は、平泉バイパス工事による環境の激変に抗しきれず……。
・2004年の夏頃
急速に樹勢が衰え、枯死寸前にまで陥っている。
・2007年3月
しだれ桜特有の枝の垂れ下がりも途中で切れ切れとなり、花の蕾もつけてはいない。いったい花の命はどこへ行ってしまったのだろうか。
・そして、2008年 平泉は世界遺産に登録される予定という。環境も桜の古樹を枯らしてしまうほど激変し、美しい景観もまた開発によって消失した今、果たして、平泉は世界遺産登録に本当になれるのだろうか?
(つづく)
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