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- ID:
- 43485
- 年:
- 2018
- 月日:
- 1215
- 見出し:
- 【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(3)進学断念して就職…それでも募る
学業への思い
- 新聞名:
- 産経ニュース
- 元URL:
- https://www.sankei.com/life/news/181215/lif1812150008-n1.html
- 写真:
- 【写真】
- 記事
- 世耕弘一は明治32年、和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡敷屋(しきや)村大字西敷屋(現・同県新宮市熊野川町西敷屋)の生家に近い敷屋尋常(じんじょう)小学校に入学した。成績優秀で、義務教育を終えた後は敷屋村の小学校は尋常小学校だけだったため、隣の請川(うけがわ)村に設置されていた高等小学校に進んでいる
学習意欲にあふれていた弘一は進学を希望した。熊野灘に面した新宮には県立第二中学校新宮分校が34年に設立され、2年後に県立新宮中学校に改称されていた
「進学して勉強したい」 弘一は自らの気持ちを伝えたが、昔気質の父、佐七はにべもなかった
「百姓に学問なんていりゃあせん」 こうして弘一は39年に高等小学校を卒業したが、進学を断念した。そして41年に新宮の富士久材木店に就職した。高等小を卒業してしばらく実家の農業を手伝っていたとみられる
新宮は古くから木材取引の町だ。熊野地方の山奥で伐採された木材を搬出し、筏(いかだ)にして熊野川の下流へと流したため川の河口にある貯木場は筏であふれ、弘一はその貯木場で働いた
「朝早くから重い木材を担いで運び、肩がはれ上がるほどの重労働でした。夜は夜で帳面の計算をして寝るのは真夜中になり、逃げ出す人もいたそうです」 元近畿大学建学史料室長の當仲將宏(とうなか・まさひろ)はこう話す
勤勉な仕事が認められたのか、就職から6年後の大正3年、東京・深川(現・江東区)の大湊(おおみなと)木材会社に転職した。弘一は就職後も学業への志は断ち難く、中学講義録を取り寄せて勉強していた。このため東京で本格的に勉強できると喜び勇んで上京した
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