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- ID:
- 43359
- 年:
- 2018
- 月日:
- 1204
- 見出し:
- 先代社長から経営哲学を継承、兄弟で歩む事業発展の誓い
- 新聞名:
- -
- 元URL:
- https://www.data-max.co.jp/article/26646
- 写真:
- なし
- 記事
- 高千穂(株)は1953年1月、創業者である川井田千穂氏により家具・建具用製材の販売を目的に創業された。その後、57年3月に法人化。設立後は木製品の販売などで、海外からの原木輸入が急増。同社の業績は右肩上がりで上伸した。さらなる設備投資を計画した同社は65年にパーティクルボード製造と本社用に1万4,000坪の広大な土地を購入した。社運を賭けた巨額な投資であったが、パーティクルボードの生産ラインがうまく稼働せず、販売代金が思うように回収できないことから、多額の不良債権を抱える。このため、同社の業績は落ち込み、原木の仕入先問屋は同社との取引を見合わせるようになる。結局、パーティクルボード製造工場は、操業開始から約1年半で閉鎖に追い込まれた
経営再建を行うべく、原木の主力仕入先の大阪の問屋会社に相談。原木の供給を要請する代わりに、自社株の45%を譲渡することで合意。しかし、それは乗っ取り工作の序曲でもあった。役員の送り込みから始まる経営介入。徐々に乗っ取りの包囲網は縮まっていく
専務取締役の川井田佳陽氏(手前)と川井田佳遠社長(奥) 決断に迷う創業者に対し、先代の川井田豊氏は、自立再建の道を選択するように申し出た。大阪の問屋との交渉が開始され、粘り強い交渉を行った結果、その問屋に譲渡した株式を倍の金額で豊氏が買い戻す。その見返りとして、高千穂が所有する資産の45%に見合う資産を大阪の問屋に超低価格で譲渡することと、年商65億円の営業権を無償譲渡することで合意した。二十数億円の手形は、主力銀行から1億8,000万円の長期資金を調達して決済した。だが残ったのは1万4,000坪の土地と1億8,000万円の借入金。まさに栄華を誇った創業時から一転、どん底へと突き落とされる事態となった。だが、ここから真の創業者といわれる川井田豊氏の大逆転劇が始まる
まず着手したのが本社を現在地への移転。工場の活用を図り、家賃収入を得ることで、不良債権の処理を行った。また、並行して同社をめぐるさまざまな問題やトラブルなどを一掃して収益確保に集中できるように改善を行った。そして好転する転機が訪れる。同社の工場内で合板の製造を手がけていた業者が撤退し、塗装合板事業を譲り受けた。最初は採算が取れない状況であったが、ある商社が話をもちかけてきたインドネシア産の合板に着目。社内で品質のテストを十分に行ったうえで、信頼できる製品と確認し、販売を開始。努力が功を奏し、自社考案の完全自動化ラインで塗装合板を月産15万枚生産。西日本一のメーカーの地位を確立した。またマレーシア産の合板輸入商社として基盤を不動のものとした。塗装合板事業は、同業者の懸念をよそに大きく拡大し売上に貢献した。この川井田豊氏の獅子奮迅の働きにより同社は立ち直りを見せる。この父の背中を息子たちは静かに見ていた
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