v10.0
- ID:
- 31266
- 年度:
- 2014
- 月日:
- 0908
- 見出し:
- 徳島駅前ヤシの木ストリート 南国徳島の象徴
- 新聞名:
- 徳島新聞
- 元URL:
- http://www.topics.or.jp/special/13885569611307/2014/09/2014_14100598783844.html
- 写真・動画など:
- なし
- 記事内容
- 徳島駅前にヤシの木が何本あるか即答できる人がいたら、かなりの愛郷家に違いない。
では、徳島のヤシの木になぜ実がならないか知っているだろうか。答えは「ヤシの実が落ちてきたら危ないから…」。ではなくて、大きなヤシの実がなるココヤシとは種類が違うからだ。
駅前のヤシの木は一般的にはワシントンヤシと呼ばれる。正確には「ワシントンヤシモドキ」という品種だと、徳島県立博物館の小川誠学芸員(50)が教えてくれた。
ところで、徳島駅前にはいつごろ、ヤシの木が植えられたのだろうか。この答えを知っている人はぐんと増えるはずだ。
それは1953(昭和28)年。45年7月4日の徳島大空襲で焼け野原となった徳島市中心部が飛躍的に発展を遂げた年だ。戦後8周年を記念して四国で初めての国民体育大会が開かれることになり、駅前の復興に拍車が掛かり「南国徳島」のシンボルとしてヤシの木が移植された。
◇ ◇
「あれは県庁の前に植えられていたヤシの木だった」。そう話すのは阿波踊りの名手四宮生重郎さん(86)=徳島南新町2。「目で見る徳島の100年」(郷土出版社刊)にも、県庁から馬車で運び出される懐かしい写真が掲載されている。
四宮さんは太平洋戦争中、南満州鉄道の整備士になろうと、15歳の時に満州(中国東北部)へ渡った。
戦後、徳島へ引き揚げてくることができたのは46年5月。見る影もなく焼け落ちた徳島市内を前に、気力もなく過ごす日が続いた。
そんな四宮さんに生きる勇気を取り戻させてくれたのは阿波踊りだった。49年、21歳で初めて踊る阿呆の仲間入りをした日の感動は決して忘れない。
「おかしなことやけど、戦争に負けてよかったと思った。平和になったおかげで大好きな阿波踊りができる」
阿波踊りは戦後の平和と復興の象徴でもあった。徳島駅前から新町にかけて移植されたヤシの木も同じ。四宮さんは踊りの季節が巡ってくるたびにヤシの木の下で朝に夕に踊り続けた。
「踊ることが楽しくてたまらなかった」。ぞめきのリズムが聞こえると、知らぬ間に血が騒いだ。
2014年の阿波踊りでも藍場浜演舞場に元気な姿を見せた四宮さん。86歳の天水の踊りに寄り添うように、桟敷沿いに10本のヤシの木がそびえていた。
「踊りを通してたくさんの人に出会えた」と感謝の念を口にする四宮さん。そんな喜びをヤシの木は約60年間、見守ってきた。
◇ ◇
徳島駅前で幼少期を過ごした写真家三好和義さん(55)=東京都=もヤシの木に特別な愛着を抱く一人だ。
世界中の楽園をテーマに写真を撮り続ける三好さんの原点は、駅前のヤシの木にある。ハワイやモルディブなど南洋の風景に魅了されるのは、南国徳島で育った記憶と結びついているかららしい。
ヤシの木ストリートを歩いていて、もう一人ヤシの木とともに人生を歩んだ男性と出会った。老舗そば屋「本家橋本」の6代目で短歌結社「玲瓏」同人の瀬戸克浩さん(50)=徳島市元町2=だ。
瀬戸さんは東京五輪があった64年生まれ。ヤシの木が植えられてから約10年後の誕生で、駅前や東新町商店街が最も華やかだった時代に育った。
関西学院大時代に玲瓏の元主宰塚本邦雄さん(故人)と出会い、短歌の世界に入った瀬戸さんに「ヤシの木」をテーマにこれまでの人生を連作で詠んでもらった。
<三歳児同士の駆けつこワシントン椰子の幹から幹まで長し><放蕩のすゑ帰郷した息子抱く父のごと立つワシントン椰子><蕎麦屋嗣ぐ決意固めしわれが見む一直線に伸びる椰子たち><君よ知るや南の国へと誘へり彼岸に聳ゆワシントン椰子>
瀬戸さんの作品は、駅前のヤシの木が人々のさまざまな人生を静かに見守ってきたことを伝えている。そして、その風景はこれからも変わらないだろう。
あらためて根元からヤシの木を仰いでみた。平和や復興、小さな幸福の形が、青空へまっすぐに伸びるヤシの木の姿と重なって見えた。
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