v10.0
- ID:
- 29600
- 年度:
- 2014
- 月日:
- 0203
- 見出し:
- 澪標 ―みおつくし―
- 新聞名:
- 大阪日日新聞
- 元URL:
- http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/140204/20140204025.html
- 写真・動画など:
- なし
- 記事内容
- 500年の歴史を持つ吉野林業は、歴史に翻弄(ほんろう)されながら南北朝騒乱の時を経て南朝最後の天皇、自天皇の終焉(しゅうえん)の地として歴史の表舞台から忘れられ、今も営々と執り行われている御朝拝(おちょうはい)の儀(ぎ)。吉野林業の始まりは、山守衆の先祖と言われている南朝の遺臣に
よって南朝滅亡後、自天皇とその弟君の御霊(みたま)をお守りするためこの地に留まり、その生活の糧として植林が始まったとされています。
急峻(きゅうしゅん)な山岳地のため耕作地が少なく、主食の稲作はできず、稗(ひえ)や粟(あわ)等の穀物で飢えを凌(しの)いでいた。しかし山は豊富な天然資源が残っており、モミやツガ、そして天然の杉檜(スギヒノキ)の大径木が林立していた。やがて信長が諸国を統一し、その後を秀吉が受け継ぎ諸国が
安定したころ、神社仏閣の建築ブームとなり、多くの天然の巨木が伐り出され、村民は大いに潤いました。
こうして吉野は林業を業(なりわい)として徐々に発展して行き、江戸中期に山守制度が確立され現在に至っているわけです。高度な林業技術と地質や気候という条件に恵まれた吉野は優良銘木材を生産し、文字通り世界一という自負がありました。
しかしそれは妄想だったのか、前回でも申したように人々の価値観の変化が起こると、どの産業でも同じですが、特にコストの掛かる銘木生産にウエートを置いていた京都北山林業と吉野林業は、その影響をもろに受けた感じです。
高級床柱生産を主にしていた京都北山林業は住宅から床の間が消えたことにより大打撃を受け、短期に高収入を得る模範林業が一気にその変化に対応できず苦戦しているのが現状です。一方吉野は、やはり銘木離れに歯止めが利かず原木価格は低値安定といったところです。
どちらの林業も手間暇をかけた銘木生産ですので植林・育林・搬出と大変なコストが掛かります。長い歴史の中で築き上げて来た造林育林技術を変えてしまってよいのか、コスト削減のために粗放林業にするのか選択肢はたくさんあります。
しかし吉野から銘木生産技術をなくしてしまったら、急峻な地形で搬出コストの掛かる不利な条件では他の林業地帯に勝つことはできません。この搬出コストをいかに削減するか、そしてもう一度吉野材の使い道を柱や天井板や造作材一辺倒ではなく、ありとあらゆる所に使用できる商品の開発や売り先の開
拓、これまでのように「売ってやっている」から「買っていただいている」という気持ちに変える事が重要です。
ここ最近木材需要は上向きになって来ています。良い材を安く安定的に供給するのが我々(われわれ)林材業の役目です。やはり搬出コストの削減しかありません。
最近の吉野の搬出方法の主流はヘリコプター集材搬出です。材価の高いころは十分採算が取れたのですが、今は高く売れるだろうと思われる木しか出さないので半分以上は山に放置しています。これは資源の無駄遣いにも繋(つな)がり、これに変わる搬出方法は行き着くところ“道”、路網整備しかないの
です。
しかしこれは一つ間違えると山を破壊してしまう引き金にもなりかねません。伐採木を安く出すだけの道が各地の林業地帯で造られ問題が起こっています。道を山に入れることは「両刃(もろは)の剣」なのです。
私は35年前無謀にも大きな道を山に入れ、掛け替えのない美林を崩壊させた苦い経験を持っています。あの時「壊れない道づくり」の大家大橋慶三郎先生に師事を受けなければ、林業者でありながら山を破壊したという誹(そし)りを一生追わなければなりませんでした。
崩壊した道を修復し、新たに「壊れない道」を造ることができたのは恩師大橋先生のご指導のおかげと今も感謝しております。道は林業再生の切り札です。「山の仕組み」をよく理解し「壊れない道づくり」で路網整備、これが森林・林業再生への道と信じ、頑張って行く所存です。
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