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- ID:
- 32885
- 年度:
- 2015
- 月日:
- 0413
- 見出し:
- 宮城県女川町 再び桜のまちに
- 新聞名:
- 産経ニュース
- 元URL:
- http://www.sankei.com/region/news/150413/rgn1504130018-n1.html
- 写真・動画など:
- なし
- 記事内容
- 「復活の象徴」千年で10万本植樹
白い車体に緑色のラインが引かれたどこか愛嬌(あいきょう)のある列車が、町を走る。JR石巻線浦宿駅を出ると、住宅地の中を行き、山のトンネルをくぐり抜けて、海が望める終点の女川駅に着く。東日本大震災後、ごく当たり前の風景が失われていた宮城県女川町では、そんな光景自体が町民に新鮮
な感動を与えている。
津波で失われた女川駅の新駅舎が完成した8日後の3月29日。雲一つない青空が広がる暖かな朝、駅近くの沿線に約250人の町民らが集まっていた。「トンネルを抜けると桜のまち」を合言葉に、列車がトンネルを抜けて駅に着くまでの約500メートルの線路沿いを、桜の並木道に変えるためだった。
◆沿線を並木道に
町民らは家族や友達らのグループごとにスコップで穴を掘り、沿線に一本ずつ桜の木を植えていく。植えた後は木の周りを石で囲み、水をやる。参加者は植樹後、満足そうに笑顔を浮かべ、植えた木の前で語り合ったり、記念撮影をしたりしていた。
「惚(ほ)れ惚れするよね」。植樹を主催した町民団体「女川桜守りの会」の藤中(ふじなか)郁夫さん(67)が、この日植えられた30本の桜の木々を眺めて目を細める。
震災前、桜は「町の花」に指定されていたほど、町に多く植えられていた。春を迎えると、町役場や神社、公園や商店街、線路の沿線にも、満開の桜が咲き誇った。しかし、町民の自慢だった桜の木々はあの日、町を襲った20メートル近くの津波で流された。
がれきに覆われた町の中で、藤中さんは震災から約2カ月後のある日、被災して元の3分の1程度の高さになった桜の木の幹に、新芽が芽吹いているのを発見した。小さな芽のそばには、3輪の花が咲いていた。桜は「津波桜」と呼ばれるようになり、震災から立ち上がろうとする町の人々の希望の象徴とな
っていった。
「何とかこの桜を守りたい」と、藤中さんら町民の有志は「女川桜守りの会」を結成。樹木医を呼び手当てをするなど保護に向けて懸命に努力したが、津波をかぶった木は弱って枯れ、次の春に花を咲かせることはなかった。
「もう一度、桜の町にしたい」。「桜守りの会」が次に目標としたのは、復興していく町に桜の木々を植え、桜があふれる町を復活させることだ。同会は来年も植樹を続け、沿線には計140本を植える計画。品種は、海からの潮風に強い「大漁桜」を選んだ。桜の名前を話すと、町民の漁師も「それは縁起がいい
な」と、歓迎してくれた。
「桜守りの会」は、町内で完成する全ての災害公営住宅団地に桜を植樹する計画だ。町に1年100本ずつ植え、千年で10万本という大きな夢も持っている。
◆ようやく人集う姿
「電車が来たぞ!」。町民の呼びかけに、植樹を終えた人々が桜を植えた小高い丘に急いで登り、乗客に手を振る。列車はそれに応えるように汽笛を鳴らし、ホームにゆっくりと滑り込む。「この電車は、女川から出発する。それがとてもうれしいんです」と、女川中2年の佐々木拓哉さん(15)が誇らしげに話す
。
土の色が広がり、重機ばかりが行き交っていた町に駅が建ち、多くの町民や観光客、修学旅行生が歩いたり、腰掛けたりしながら談笑していた。震災から4年が過ぎ、ようやく人の集まるまちの姿が見えるようになってきた。
「津波桜」は枯れた後、伐採されたが、芽継ぎされ、順調に育っている。後継樹は町のシンボルとして駅舎の近くに植えられ、風景や人の心にも彩りを添えていく。
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