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木造建築のネツト記事
ID :  2998
公開日 :  2007年  3月10日
タイトル
[土台に半年 熊本城復元
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新聞名
朝日新聞
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元URL.
http://www.be.asahi.com/be_s/20070311/20070219TBEH0054A.html
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元urltop:
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写真:
 
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熊本城は「土木の神様」加藤清正がつくった城だ。大阪城、名古屋城と並び日本三名城に数えられる。  1877(明治10)年の西南戦争で一部を焼失。復元する工事が1997年から進められている。  築城400年の今年の目玉は、藩主の居間や対面所に使われた「本丸御殿大広間」の復元だ。03年に着工し、現在は、屋根や柱などの大枠ができて東西78メートル、南北31メートルの威容を見せる。  復元計画で一貫されているのは「史実に忠実に」という考えだ。これが意外に難しい。  間取りを示した古絵図に加えて、発掘調査で柱の正確な位置を確認した。屋根に置かれる瓦も、発掘調査から出土した古瓦を元に、熊本県宇土市の工場で復元した特注品だ。屋根の形も明治初年に写した古写真の画 面の角に少しだけ写った外観から割り出した。  工事そのものも難しい。  例えば、最初に取り組んだ木組みの土台作り。凸凹の石垣の上で水平となるよう、凸凹にかみ合う部分の丸太を削っていく。「光つけ」と呼ばれる作業だ。  難しいところは石灰を何度もかけてピッタリ合っているかどうか、確認して削っていく。許される誤差は大きくて3ミリ程度。それ以上では、全体がかなりひずんでしまうという。  光つけは全部で100カ所以上。土台だけで半年以上を費やした。柱や梁(はり)も木材を削り合わせる。くぎは一切使わない。  御殿は一部3階建てで、延べ床面積は約890坪(約2900平方メートル)。屋根に使用された瓦は14万枚。平均的な住宅で使用される瓦の数は2000枚ほどだから、その70倍になる。  遠くは長野県の木曽から取り寄せた材木は、柱に使われたものだけで約300本。太い物では直径1メートル級の大木もあった。建具や床面なども含めると、使用された材木は大小約4万本、総重量は810トンに及ぶ。  日本人は古代から巨大な建物を木でつくってきた。縄文時代の青森・三内丸山には、高さ20メートルと推定される掘っ立て柱の建造物があった。出雲大社や大仏殿、戦国期には城郭……。  だが、鉄とコンクリートの世の中になって、その技術は、忘れられかけている。復元作業は、昔の大工さんたちとの「知恵くらべ」の様相を呈する。  工事を任された大工の棟梁(とうりょう)の一人、松永幸一さん(53)は、約15年前から文化財の改修や解体にたずさわるようになった。「やったことがない大きさ。巨大な建築物だからこそ、細かい作業の積み重ねが必 要だった」と話す。  着工から3年以上。周辺整備をすませて、御殿は来年春に一般公開される。 木造、高さ100メートル級も可能に  建築家で京都大学工学部教授の高松伸さんは、数年来、100メートル級の木造高層建築を提案している。  板材を接着剤ではり合わせて、強度のバラツキを小さくした60センチ角ほどの大断面集成材を使う。炭素繊維をくぎがわりにしてこれをつなぎ、竹かごのように組み上げていく。  「燃えやすい」木造の建物は、長い間、3階建てまでしかつくれなかった。  しかし、「実は、木材は火には強い」と高松さんはいう。「熱の伝わりやすさは、コンクリートの20分の1、鉄の500分の1。太い集成材なら、表面は燃えても中までは燃え尽きないし、溶けることもない」  同じ太さであれば、集成材は、通常の木材の倍近い強度がある。もちろん、鉄やコンクリートなみの強度にはならないが、その分比重が小さく、建物全体を軽くできる強みがある。鉄筋コンクリートと組み合わせた「ハイ ブリッド構造」にする選択肢もある。  98年の建築基準法改正で材料による高さの制限はなくなり、十分な強度、耐震性、耐火性があれば、材料は何でもよくなった。  高松さんによれば、集成材でも審査は十分にパスするはず。実現例はまだないが、「やろうという建築主が近い将来、必ず現れる」と信じている。  森に囲まれて暮らしていた時代の日本人に、木はいくらでも手に入った。温帯域だから樹種も豊富。柱はヒノキ、板はスギ、梁(はり)はマツ、土台はクリといった文字通り「適材適所」の使い分けがきき、しかも加工は簡単 な道具でできる。  つい100年ちょっと前まで、日本人はどんな大きな建物でも、木以外でつくることは考えなかった。  「木材を過去のものだと考えるのは違う」と高松さん。「人類が手にした材料で、再生が可能なのは木材だけ。環境の世紀にもっともふさわしい素材です」  地震、噴火、台風……。自然災害の頻発する国土だから、最初から永続性のある建物など考えなかったのかもしれない。使えるものは再使用しながら、つくり直していく。そんな「持続性」が、はるか遠い昔から日本人が 育んできた「木の文化」の本質だ。捨てるのはあまりにモッタイナイ。 大林組の復元案に基づいてつくられた古代出雲大社の10分の1模型(島根県立古代出雲歴史博物館) 太古の出雲大社は48メートル  縁結びの霊験あらたかな出雲大社の本殿は24メートルの高さがある。普通のビルなら8階の高さに相当する。神社建築としては破格の大きさ。前に立つと圧倒される。  しかし、古代には少なくともこの2倍の高さがあったという記述が古い文献などに残る。80年代半ば、大林組のプロジェクトチームが、この伝承に挑戦したことがある。  「木造でそんなものはつくれないというのが当時の大勢。できる、できない、という以上に、当時の技術でどれくらいの巨大建築がつくれたのか。それが知りたかった」と当時チームの中心にいた前大林組歴史館長の林章 さんはふり返る。  建築史の権威、故福山敏男・京都大学教授にも協力をあおいで出た結論は「可能」。100メートルもの長い階段をもつ、壮麗な神殿の想像図が描かれた。日本建築史上でも有数の高さをもつ巨大な建物である。ただし 、評判にはなったものの、これだけでは定説をくつがえすまでには至らなかった。  ところが2000年、本殿前の工事現場から巨大な柱あとが見つかった。1.4メートルもあるスギの丸太が3本。鉄の輪でたばね、1本の柱にして使ったとみられる。神社に残る古い絵図にもよく一致するものがあった 現在の規模なら、こんな太さはいらない。48メートルの神殿の存在が現実味をおびてきた。  「20世紀の最後の最後に、こんな形で出してくるとはさすが出雲の神様」(林さん)。神話からトロイにたどりついたハインリヒ・シュリーマンの話にちょっと似ている。