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ID :  2994
公開日 :  2007年  3月10日
タイトル
[名古屋城 宝暦の大修理 工法の謎解けた!
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新聞名
中日新聞
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元URL.
http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20070310/mng_____sya_____007.shtml
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元urltop:
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写真:
 
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江戸時代後期、名古屋城で大がかりに行われた「宝暦の大修理」(1751-55年)の工法を示した修理図面などが新たに見つかり、名古屋工業大大学院工学研究科の麓(ふもと)和善教授(51)の研究で、工 事の細部が分かった。土台(石垣)の変形と沈下で傾いた高さ約36メートルの天守閣を、長さ100メートル以上の太縄で引っ張って保ち、その間に石垣を直し、建物内部も修理するというアクロバティックな難工事。麓教 授は「尾張藩の飛び抜けた技術力がわかる。今後の文化財修理にも影響する第一級の史料」と話す  ◇天守傾き、100メートルの縄で引く  見つかったのは、修理図面や関連文書のほか、天守周囲の景観を描いた「御天守上見通(うえみとおし)絵図」など12点。一昨年11月ごろ、松坂屋創業家の伊藤次郎左衛門家(名古屋市千種区)にあるのを麓教授が確 認した。当時の作事(建築)奉行「寺町兵左衛門」の名を記した袋に入っていた  麓教授によると、当時の名古屋城は北西角の石垣が約60センチ沈み込み、天守の柱は垂直より1-3度傾いていた  図面では、天守の北西側の床下材に太縄を縛り付け、南と東に引っ張っている。縄の先端は、地面に固定した巨大な「ろくろ」の軸棒に巻き付けてあり、ろくろの代わりに矢倉ふうのより強固な構造物も使われていた  天守内部の修繕では、各階の傾いた床を押し上げ、微調整。柱やはりの周囲に縄や丸太を掛け回し、てこの原理を用いた複雑な方法だ。約80センチ四方の図面には、紙片がいくつも張り重ねられ、綿密な計画の跡がう かがえる。石垣の修理図は、立体的な「起こし図」になっている  宝暦の大修理については1941年、名古屋高等工業学校(現名工大)の城戸久・助教授(当時)が、陸軍所蔵の図面を元に、大まかな工事内容などを建築学会論文にまとめている  今回発見の図面はそれとは別の原図。複数あったうちの一つが1911年、伊藤家に渡っていた。その分析から工法の細部が具体的に分かった  「御天守上見通絵図」は、天守最上階から見える360度の風景図。約1・5メートル四方に、周囲の木々や城下町、伊勢湾、富士山などが描かれている。1753-55年の測量記録文書とセットで、宝暦の大修理のころの 作製と分かった。麓教授は「大工事の完成記念に用意したのではないか」とみている  <名古屋城> 1609(慶長14)年、徳川家康が築城を命じ翌10年に着工、14年にほぼ完成した。1945(昭和20)年の名古屋空襲で天守や本丸御殿が焼失、59年に天守が再建された。外観は、5層の屋根のうち2 -4層を土瓦から銅瓦にふき替えるなどした宝暦の大修理後の姿が元になっている。