ID :
2780
公開日 :
2007年
2月16日
タイトル
[伯国開拓移民・関保三郎伝
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新聞名
http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DO_N_ID=15318
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元urltop:
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写真:
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保三郎とアサは長い船旅を終え、ブラジル国のサントス港で下船してから、移住地に向かって汽車に乗った。日本の風景とはまったく違う、外の景色を汽車の窓から眺めながら、チエテ移住地に行く他の家族と
一緒に、汽車に乗った。汽車の中で昼食時となり、パンにハムをはさんだサンドウィッチが配られたのだが、ハムが臭いと言って、パンだけを食べる者が多かった
保三郎は、移住地造成を担当する、ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の職員に引率されて、サンパウロ州とマットグッソ州の境にある、ペレイラ バレット市のチエテ移住地に行った。この移住地は、ラプラタ川の上流のパラ
ナ川と、サンパウロ州を横断してパラナ川に合流する、チエテ川に挟まれた、肥沃な土地である。保三郎が入植するころは鬱蒼と茂る原生林であった。その土地を移民たちは斧と鋸と開墾鍬を使って、汗にまみれ風土
病と戦いながら、綿畑を造成して後に今日見るような緑の大牧場を作り上げたのである
開拓移民が、サンパウロ州の各地に入植し始めたころは、空から見ると緑の原生林ばかりで、たまに集落を見ただけだったが、わずか三十年足らずで、まるで筵を丸めて畳んだ様にして、緑の原生林がなくなったと、或
る老人が感嘆して話してくれた
話は前後するが、アサの両親や兄たちは、アサが遠いブラジルへ行くのが不安だったので、弟の森三郎を同行させることにした。そして一応おちつくまで、森三郎は手伝っていて後、日本に戻ることになっていた
同行した森三郎はアサの子供たちを可愛がり、保三郎夫婦の入植当初の困難によく耐えて協力した。ところが困ったことに太平洋戦争が始まって、森三郎は、日本へ帰ることが出来なくなり、結婚して独立した。彼はチエ
テ移住地から百キロばかり離れたところに移って、野菜栽培をしていたが、後にサンパウロ市の近郊のサント アマーロ市に転住し、手広く野菜栽培をした
汽車は、サンパウロ市から五百キロばかり離れたアラサツーバ市に到着したが、目的地まで行くのには他の汽車に乗り換えなければならないので、ホテルに一泊することになった。夕食の食卓に、鶏のから揚げが出て
きたのだが、それが骨付きだったので、気味悪くて食べられなかったと、義母は私に入植当初の想い出を話してくれた
アラサツーバ市のホテルの窓から眺めているとき、ブラジル人たちが花束を持って歩いてゆくのを見たので、お祭りか何かだろうと思ったのだが、その日は十一月二日の大切な宗教祭日フィナードで、日本のお盆に当
たる日であった。人々は墓参りに花を持って行くところを、ホテルの窓から見たのだったと、後年になって知ったのだった
翌朝、汽車でアラサツーバからルッサンビーラまで行き、そこからチエテ移住地へトラックに乗って、チエテ川を渡り、原生林が鬱蒼と茂っている肥沃な土地に到着した
いったん移住地にある宿舎に入り、各自の仮の住まいをつくることになった。チエテ移住地のサンジョゼー地区には、既に先輩の移住者が入植していた
移住地の第一日目が明けようとしていた。保三郎は宿舎の外へ出た。目の前には、まだ黒々と見える原生林が立ちはだかっていた。保三郎は、開拓移民として、日本の両親の誇りとなるよう立派な開拓者となることを
、再び心に誓って立っていた。真夏の太陽は輝き、日本で聞いたことのない小鳥の鳴き声や遠くにサルか何か獣の鳴き声を聞いた。開拓移民生活の第一日目が始まろうとしていた
サンパウロ州は、十一月に入り本格的な雨季になり午後になると雨が降る。急ごしらえの泥壁で出来た家は、雨季にかなり壁が雨水でとけて薄くなった。急ごしらえの仮小屋で、台所には屋根がなかったので、アサは傘
をさしてご飯を炊いた
野菜がなかったが、教えてもらって雑草の若芽をつんでおしたしにしたり、味噌汁の具にしたりした。パパイヤが豊富に自生していたので、青い実をちぎってきて漬物にして食べた。パパイヤの味噌漬けは、ぱりぱりして
甘みがあったと、義母が話してくれた
入植当初保三郎は、日本の水田稲作農業とまったく異なった、綿作農家として出発した
四月から真冬の七月の手が冷えて冷たくなるころまで、綿の収穫が続いた。八月から十月までの暖かくなり乾季の後半の三ヶ月間は、まさに血のにじむような努力をして開墾に励んだ。原生林の大木を切り倒し、潅木を
伐採して、集めて焼き、綿の種を播く準備をした
保三郎と森三郎は、ブラジル人を使って大木を切り倒し、枝を切り払い、建築材になる木材は畑の外まで運んだ。細い木や潅木は切り倒し、根を抜き取った。木の枝、掘り出した根を山のように積み上げて置き火をつけ
て燃やした。これが山焼作業である
開墾の仕事はまだまだ沢山な作業があった。大きな木の根の始末であるが、毎年少しずつ掘り起こしていった。畑の外に置いてある大木は、建築材として使うために製材した。大きな穴を掘り、大木を差し渡しておいて
、上と下で人が大きい鋸を引くのであった。もちろん下で鋸を引く人は大きな穴の中に居た。人力による製材方法であった
原生林を開墾しても直ぐには馬で引く種まき機は使えなかった。まだ大木の切り株がたくさん残っていてトラクターが在ったとしても使えなかった。手蒔きの農具で綿の種を播いた。開墾して畑らしくなるまで、数年かか
った。毎年乾季には原生林の伐採、山焼き、整地の仕事に没頭した
保三郎は、毎年数ヘクタールずつ原生林を切り開き続けた。一緒に入植した者たちが、途中から彼に土地を売ってサンパウロ市に転住して行ったから、所有地は増加するばかりであった。