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木造建築のネツト記事
ID : 
公開日 : 
タイトル
[今週の本棚:池内紀・評 『棟梁 技を伝え…』=小川三夫・著、聞き書き・塩野米松
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新聞名
毎日新聞
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元URL.
http://mainichi.jp/enta/book/news/20080504ddm015070007000c.html
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元urltop:
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写真:
 
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◇歳月にかつ建物づくり、人づくり  旅先などで出くわしたことがないだろうか。寺の本堂が再建される。境内に足場が組まれ、大きなホロをかぶった中で何かが進行しているらしい。すきまからのぞきこむと、白い角材がピラミッド状に積んである。完成は 三年先だとか。
 そのあと、すっかり忘れていた。たまたま再び訪れたところ、ソリの美しい屋根をもつ勇壮なお堂ができていた。がっしりした力強い木組みなのに、ちっとも重苦しくない。少し離れてながめると、いまにも両の翼を羽ば たいて飛び立ちかねない--。
 誰がこれをつくったのだろう? 「宮大工」とよばれる人だ。コンクリートと鉄骨、スレートと合板の世の中で、木を切り、削り、組み合わせ、昔ながらのやり方で寺や神社、本堂や山門や拝殿をつくる。百年、二百年はおろ か、千年ののちにも変わらず地上にあって、仏や神々のいますところ。
 「法隆寺最後の宮大工」といわれた西岡常一(つねかず)のことはよく知られている。小川三夫は高校を出たあと、その大工棟梁に弟子入りした。昭和二十二(一九四七)年の生まれだから、いわゆる団塊の世代である。
世はあげて「高度成長」へとつっ走るなかで、およそ時代ばなれした道を選んだ。
 三十歳のとき、寺社建築会社「鵤(いかるが)工舎」を設立、棟梁兼舎主になった。あきらかに、師の生き方(また行き方)とは大きくちがう。平成十九(二〇〇七)年、満六十歳。これを機会に手塩にかけた仕事場を若い者 に譲った。
 「理由は年老いたからではありません」  では、どうしてか? 塩野米松が聞き手になって聞き書きをつくった。西岡棟梁との出会い、修業時代のこと、鵤工舎のしくみ、弟子を育てる秘訣(ひけつ)。むしろたいてい弟子から勉強させてもらったという。
 「重しを外さないと下は伸びないとな」  任せるというのがいかに大切なことであるか。
 木組みにあたっては、しっかりした「継ぎ手」をつくり、きちっとした「仕口(しくち)」を刻むことによって丈夫な建物ができていく。まさにそのように人を素材にして、一つの集団がしだいに大きく成長していった。この聞き 書きがすばらしいのは、その経過が弟子たちを通して、ことこまかに語られていることだ。
 「松本源九郎も来たな。源ちゃんってみんな呼んだが、学校の勉強はまるでだめやった」  通信簿はオール1。中学を出てやってきて、十六年いた。多少とも手のかかる弟子だったのだろうが小川三夫は述べている。源ちゃんみたいな人がいてくれたら仕事場が和やかになる。「そういう役目をしてくれてたな」  宮大工の仕事は時間との闘いだ。速くつくることではなく、長い歳月に打ちかつものをつくる。だからこそ急ぐのは禁物。それは人間づくりにもあてはまる。鵤工舎は関西また関東に百二十に及ぶ寺社をつくったが、それ 以上に誇るべきは多くの弟子を養成したことだろう。腕こきになったのをかかえこむのではなく、それぞれの望むところへ送り出した。三十年たって当人が出ていく。「次に行く」ためには上の重たいのがないほうがいい。名 棟梁は素材としての自分の見きわめもあざやかだ。
 これからのことは語られていないが、私はたのしく想像する。作業服から少しばかりおシャレして、自分の手がけたお堂や弟子たちの仕上げた建物を、何くわぬ顔で見てまわるのではなかろうか。