ID :
4922
公開日 :
2007年 10月 9日
タイトル
[ギンモクセイ、キンモクセイ・・・蔭涼寺(
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新聞名
読売新聞
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元URL.
http://osaka.yomiuri.co.jp/flower/fl71009t.htm
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元urltop:
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写真:
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白い女狐が陰陽師・安倍晴明を育てたという葛の葉伝説で知られる「信太(しのだ)の森」。その一角にある曹洞宗の禅寺・蔭涼寺では本堂前に樹齢350年に達するといわれるギンモクセイ(銀木犀)の古木2
本と、後に植えられたキンモクセイ(金木犀)の大木が並ぶ。本格的な秋の訪れとともに、枝いっぱいに散りばめられたように開いた小さな花々は、境内に秋の香りを振りまいていた。
モクセイの花の命は短い。昨晩からの雨が上がるのを待って、昼過ぎにJR和泉府中駅から自転車で寺に向かった。このあたりでは小栗街道と呼ばれる旧熊野街道を通り、陸上自衛隊駐屯地の塀沿いに車道を上がって
いくと、池や林が現れ「信太の森」のふんいきが感じられてくる。駅から30分ほど汗をかけば蔭涼寺の門前に着く。
山門をくぐって参道を進むと正面の本堂の甍を覆うように大木の深い緑が広がる。左側が白い花が散りばめられたギンモクセイ、右側が橙色の小花が輝くキンモクセイだ。両方の枝葉が接してトンネルのようになってお
り、ここをくぐって本堂の前に出ると、右側の橙色の花が白い花に変わってくる。キンモクセイの木の奥にはもう1本のギンモクセイの古木があり、元々は左右のギンモクセイが対になって植えられていた。
どちらのギンモクセイも高さ7mほどに達し、横幅も8mくらいにわたって枝葉を広げている。大阪府の天然記念物に指定されているが、普通3~4mくらいのモクセイとしては全国的にも数少ない大木だろう。花の色も
香りも、キンモクセイと比べるとどうしても地味に感じられるギンモクセイだが、庭木などで見る機会が少ないだけに、やや幅広の緑の葉に映える白い花は、キンモクセイとまた違った落ち着いた趣も感じられる。
住職の加藤千春さん(57)によれば、この2本のギンモクセイは寺の開創を記念して植えられたものという。寺は江戸時代初期きっての禅僧・鉄心道印禅師が寛文元年(1661年)に開いており、ギンモクセイはこの時か
ら齢を重ねてきたことになる。「曹洞宗を開いた道元禅師がギンモクセイを大変お好きだったことから植えられたのでしょう」。
蔭涼寺の創建には、淀川の治水工事を行い、東回り・西回り航路を開くなど「天下の台所」大坂の礎を築いた河村瑞賢がかかわっていることは興味をひかれる。鉄心禅師を江戸に招くよう幕命を受けた瑞賢が使者として
禅師に会い、招請は断られたものの深い感化を受け、堂の建設に当たったという。
建築の一部には伏見城の古材を使ったといわれ、本堂の天井は戦乱の跡を留める「血天井」と呼ばれている。関ケ原の戦の直前に徳川の家臣として伏見城を守り抜いて自害した鳥居元忠らの供養にと、伏見城の床を
寺院の天井に使った「皿天井」は洛北の源光庵などで見られる。鉄心禅師と瑞賢も、天下が定まるまでに倒れた将兵への供養の思いで廃城となった古材を使ったのだろうか。ともあれ、河村瑞賢とも縁があったと思うと、
このギンモクセイもいっそう大きく感じられる。
そのギンモクセイもピンチを迎えたことがある。1961年の第二室戸台風で右側の木の大きな枝が折れてしまった。もう駄目かと当時手に入りにくかったギンモクセイに代えてキンモクセイを手前に植え、この木が現在
の大木に成長した。一方、傷ついたギンモクセイも手当てが功を奏して生命力を回復、再び枝を伸ばしてきたという。
蔭涼寺は名所旧跡として誰もが知っているという寺ではないが、私と同じように雨上がりを待つようにして、家族や友人どうしでモクセイを見に来る人が次々訪れていた。「毎年10月に来ますが、今年は花の勢いがい
いですね」と近くの中年の男性。連れ添うように花のトンネルをくぐる年配の夫婦もいた。
明治32年に生まれ、87歳で亡くなった私の祖父は晩年「10月を迎えてキンモクセイの花を見、香りをかぐと、不思議と今年も生きることができたという実感がする」と書き留めていた。花に寄せる思いは人それぞれだ
ろうが、暑さをしのぎ一年の終わりが見えてくる10月初め、1週間ほど咲いてすぐ散り敷く花だからこそ、今年もまた見たいという人が多いかもしれない。350年の時を重ねてきた大木ならなおさらだろう。
信太山の坂を下り和泉市の街中に戻った。3連休最後のこの日は、多くの神社の秋祭りの最終日。夕闇の迫る中、各町のだんじりが通りを次々と駆け抜けていった。