ID 5596
登録日 2008年 1月 5日
タイトル
工業地帯森「はじまる」 尼崎市民ら「100年計画」
.
新聞名
読売新聞
.
元URL.
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hyogo/news/20080102-OYT8T00388.htm
.
元urltop:
.
写真:
.
阪神高速道路湾岸線が空にぐっとカーブを描く尼崎市の臨海部。小さな葉をつけたヒメユズリハやトベラなど常緑樹の苗を前に、昨春まで神戸市内の私立中学・高校で生物教諭、校長を務めた村上義徳さん(
67)(尼崎市東桜木町)ら、仲間たちが楽しげに語り合う。「100年後、この辺りは森になってるはずですよ」
一帯には神戸製鋼所や関西熱化学など、重工業を中心に工場の棟が1990年代半ばまで立ち並んだ。撤退後のその地で、苗木を育て植える。かつての「公害の街」に緑を再生させようと県と市が進める「尼崎21世紀
の森構想」の中で、2006年から取り組みが始まったここは<はじまりの森>(0・3ヘクタール、扇町)と名付けられた。全体構想は市を横切る国道43号以南、1000ヘクタールの3割以上を今世紀中に緑で覆う壮大な計
画。支えるのは20~80歳代の約300人の市民ボランティアだ
村上さんは、43号のすぐ北で生まれ育った。高校の体育では授業のたび体操着に黒くしみができた。工場地帯から飛んできたススのせいだった。「そのころ43号以南は、煙がモクモク立ち上る灰色の街だった」
高度経済成長末期の1974年の尼崎でみると、43号以南、臨海部では公園・緑地の面積はわずか3・4%。ばい煙による公害も悪化を極めていた
80年代に入ると経済成長は鈍化、公害の深刻化の影響もあって工場の閉鎖、移転が相次ぎ始めた。市全域で製造業の事業所は83年の約3000か所をピークに下降。一昨年では約1580か所まで減っている。88年 には、市の公害病認定患者と遺族ら約500人が国や市内企業などを相手に、尼崎公害訴訟を起こした。街の活気も失われていった
緑少ない街だったが、村上さんは幼い時から動植物が好きだったという。勤めた学校では生徒を野外活動で六甲山に連れて行った。一方、人情味あふれ、古い寺社など優れた文化遺産もあるのに尼崎の自然環境の乏
しさが心にひっかかっていた。定年退職の2年前、樹木医師の資格を取った
「森も人も育てるのは同じ。公害を象徴する地に森をつくる意義は大きい」
コナラ、アベマキ、ケヤキ、シラカシ……。主に武庫川流域で種を拾い集めて苗木を作る。これまでに約30種類、1万5000本を育て植樹を続ける
結婚を機に69年に移り住んだ淡路島出身の片岡昭子さん(70)(同市武庫川町)は「私たちの手でできるのなら、子らに古里のような美しい森や海を少しでも残したい」と願いを込める
跡地に限らず今ある工場にも緑をと村上さんは工場内の空き地に植栽したり、壁にツルをはわせたりする「すき間緑化」も提唱している。臨海部の25社でつくる尼崎鉄工団地が賛同する
大気汚染も改善が進んできた。「もう公害の街ではない」との声も聞かれるが、市が88年を最後に認定した公害病患者はのべ1万2000人、昨年11月末現在も2396人が暮らす
村上さんは言う。「木々は大きくなれば、間伐もしなくてはいけない。そこまで育つのに10年以上。息長く、環境破壊は繰り返さないというメッセージをここからつないでいきたい」
..