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default 最近はクリスマスのイルミネーションが有名ですよね。
default 大きく育った表参道のケヤキなのですが、実はこれらは大正時代に植えられたものではありません。
default 最初に植えられた201本のケヤキの木は、東京空襲の折に数本を残してすべて焼失してしまってたのです。
それを戦後もう一度植えなおしたものが、やっとここまで成長して昔の姿に戻ったのが今、なんです。
表参道周辺に焼夷弾が落とされた山の手空襲の日の体験を語り継いでいるページがあります。
「表参道が燃えた日」平成21年5月15日 神田雑学大学定例講座No455 一部抜粋してご紹介します。
昭和20年に入りますと、爆弾と焼夷弾による攻撃が増えてきました。木と紙で出来ている日本家屋を焼き払うには焼夷弾がより効果的ということで、随分熱心に焼夷弾の研究開発がなされたようです。昭和20年の1月にそれまで司令官だったハンセルに代わってカーチス・ルメイが司令官になりました。鬼将軍と 言われた彼は、以後の空襲の総指揮をとりました。
焼夷弾による夜間の無差別爆撃が行われ始めたのは3月からです。超低空での空襲です。そしてどなたでもご存じの3月10日の下町の大空襲になるわけです。3月10日の零時8分に深川に第一弾が落とされてから2時間余りで10万人という方が亡くなりました。この1日で10万人という数は世界の長い歴史を 振り返っても、世界中どこにも例のないことです。
3月10日には325機が来襲1665トンの焼夷弾を落としている、それで約10万人の死者が出たとあります。5月24日には562機が来襲し3645トンの焼夷弾が落とされ、5月25日にも502機が来て3258トンの焼夷弾が落とされたとあります。山の手大空襲はそれほど大規模な空襲だったのです。
そこここに入れさせていただいたカットは穂積和夫さんという現役のイラストレーターの作品です。小学校以来の友達ですが、多方面でご活躍の方ですので名前をご存じの方も多いと思います。
default 木村さんは当時、表参道の同潤会アパートの向かい側に住んでいらっしゃり、この5月25日にはお母様とお姉さまと3人して、炎の海となった表参道を横切って同潤会のアパートにたどり着き、そこに井戸がありましたんですが、井戸水を頭からかぶって、同潤会アパートの一室に逃げ込んだそうです。
ケヤキの木は音をたてて燃え上るし、窓ガラスもばりばり割れる、もうこれ以上逃げることはできないと皆さんで死を覚悟したそうでございます。
default 山陽堂書店は今も表参道と青山通りの交差点の交番側の角にあります。左の絵は当時の山陽堂で、昭和の初めに建てられ当時としては珍しい鉄筋3階建で地下室もありました。空襲のとき山陽堂の方は猛火に逃げ惑う人たちを地下室に入れて、隙間から入る火炎を必死になって防いで100名余りの方の 命を救いました。この写真がオリンピックで三分の二削られた今の山陽堂の写真です。
この山陽堂書店さんもデザイン系のマニアックな雑誌の品ぞろえが良くてよく通いましたが、「表参道が燃えた日」を読むまで、空襲時のそういった歴史的事実は知りませんでした。今後は瞑目しながら本買いたいと思います。
同潤会アパートが震災復興だけでなく後の東京空襲時にも命を救っていたと、これも知りませんでした。本来の建築の真の役目というのは、このように人の命を守ることなんだな、と改めて得心しました。
しかし、大戦末期の日本の空襲のことを考えるたびに胸クソ悪くなる話があります。建築の技術革新によって人の命が救われた例がある一方で人殺しのために建築の知識や技術をつかった建築家がかつていたのです。
前述の「表参道が燃えた火」の中で少し触れられておりますが、 ~爆弾と焼夷弾による攻撃が増えてきました。木と紙で出来ている日本家屋を焼き払うには焼夷弾がより効果的ということで、随分熱心に焼夷弾の研究開発がなされたようです。~ 外苑に話からズレますが、この件はどうしても知っておいてほしいので、 続いて、こいつのことについて解説します。
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